第三十七話
どうにかして父親と姉の仲を修復したい
百合はずっとそう思っていた。
以前から、一孝と千絵の親子関係は上手くいっていなかったが、自分の手術があった日を境にそれはさらに悪化していた。
その理由は百合も知っている。手術があった日、一孝は仕事でその場に居合わせることが出来なかった。それについては百合も思う所がないわけではない。だが、だからといって一孝を責める気にはならなかった。
一孝が百合に手術を受けさせるためにどれだけ苦労していたのかは百合も何となくだが分かっていた。一孝は口には出さないが、相当無理をしていたはずだ。
百合が患っていた病はそう簡単に治せるものではなかった。それこそ国外から専門の医師を呼び寄せなければならないほどに。そのために一孝がどれだけの犠牲を払ったのかは百合には想像もつかなかった。
だから手術の当日、一孝がその場に居合わせることが出来なかったからといって、それを責める道理は百合にはない。今、こうして自分が生きていられるのは一孝が頑張ってくれたからおかげでもあるのだから。
それを少しでも千絵にも理解して欲しいのだが、如何せん、あの姉と来たら父親のことになると信じられないくらい意固地になる。それは普段温厚で柔和な彼女の態度とは真逆といってもいいほどだった。
だが、いつまでもこのままでいいはずはない。何か二人を仲直りさせるきっかけはないものか。百合は手術が成功し、通常の日常を取り戻してからというもの、ずっとそれを考えていた。
一孝と千絵の関係が悪化した原因があの手術にあるのなら、その原因を作った自分には二人の関係を修復する責任がある。その責任を果たすのに、今日の夕食は絶好の機会といえた。
「じゃ、じゃあ、みんな揃ったし夕食にしよっか?」三人分の食事を用意した百合は引き攣った笑顔を浮かべると手を合わせた。「いただきます」
食事が始まると、千絵は極力一孝を視界に入れないようにしながら、自分の分の食事を黙々と食べ続けた。
一孝もほとんど話をせずに食事をしていた。
百合は味噌汁を啜りながら、そんな二人の様子を交互に見比べる。
予想していたことだが、やはり空気が重苦しい。ただ、家族三人で夕食をしているだけのはずなのに、一触即発の雰囲気が漂っている。
その原因となっている人物に視線を送ると、百合はわざとらしく明るい声を出す。
「久しぶりだよね? こうして三人で食事をするのって。ねえ、お姉ちゃん」
百合に同意を求められた千絵は、「ええ、そうね」と頷く。
「いつもは誰かさんがいないおかげで落ち着いて食事が出来るけど」
空気読んでよ。
本当に一孝に対しては呼吸をするように毒を吐く。
百合が今の発言を咎めるように千絵を見ると、千絵はぷいっと目を逸らす。
これは今日の作戦も失敗か。百合がそう思っていると、一孝が箸を置いた。
「二人とも、少しだけいいか?」
「どうしたの、お父さん? そんな改まって」百合が不思議そうに言う。
「実は近いうちに仕事を変えようと思っているんだが」
「え?」
「今度の仕事は残業も少ないから、今までのように帰りが遅くなることも減るだろうし、そうすれば家族の時間も十分に取れると思う。今までお前たちには迷惑を掛けてしまっていたからな。百合も手術が成功して、元の生活に戻れたわけだし、この辺で一度落ち着こうと思ったんだ」
「それ本当?」百合が尋ねる。
「ああ。本来ならもっと早くこうするべきだったんだが、片付けなければならない仕事が残っていて、こんな時期になってしまった。それに関しては申し訳ないと思っているんだが……」
「そんなことないよ。お仕事だもん。仕方ないよ」
「そう言ってもらえると助かる」
「お父さん、ずっと忙しかったもんね。私はお父さんがそう決めたんならいいと思うけど……」百合はそう言うと、千絵に意見を窺う。「お姉ちゃんはどう思う?」
「別に、いいんじゃない」それまで耳を傾けていただけの千絵は短く答える。「私には関係のないことだし」
「もう、お姉ちゃん。また、すぐそういうこと言って――」
「話って、それだけ?」いつの間にか食べ終えていた食器をまとめて千絵が言う。
「ああ」
「そっ。じゃあ、私、部屋に戻るから」
千絵は食器を片づけると、最後に一孝を一瞥して部屋に戻って行った。
「……何か、ごめんね」百合は千絵がいなくなると一孝にそう言った。
「お前が謝ることじゃない」一孝が首を横に振る。
百合は残りの食事を済ませると、食器を流しへと運んだ。水を出し、スポンジに手を伸ばそうとすると、一孝がそれを先に手にした。
「今日くらい片付は私がやろう」
「え、大丈夫?」心配そうに百合がきく。
「食器洗いくらいなら私でも出来る」
それを聞いて百合はクスッと笑う。
こういうところはよく似ているのに。
一孝が食器を洗い始めると、百合はその場を離れる。
「じゃあ、お願いするね。私はちょっとお姉ちゃんの様子見て来るから」
「すまないな。私たちの問題でお前にまで心配を掛けてしまって」
流れる水の音に混じって聞こえて来た一孝の声に百合は足を止めた。リビングの扉に伸ばしかけた手を下すと、百合は、「お父さんたちの、じゃないよ」と答えた。
「家族の問題だよ」
※
千絵の部屋の前で百合はゆっくりと深呼吸をした。
ただ、姉の部屋に入るだけなのに異様に緊張する。
リビングから出て行く際に千絵が一孝に向けた暗い視線。それが百合にノックをさせるのを躊躇わせていた。
だが、いつまでもここに突っ立っている訳にもいかない。百合は思い切って部屋の扉をノックする。
「はい?」部屋の中から千絵の声が聞こえる。
「私。入ってもいい?」
「どうぞ」
百合が部屋に入ると、千絵はベッドに腰掛けていた。机には参考書が拡げられている。それを見て、百合は、「勉強してたの?」と、尋ねた。
「いいえ」千絵が首を振る。「やろうと思って広げただけ……」
「なら良かった」
「座ったら?」千絵が自分の椅子に目を向けて言った。
「うん……」百合は促されるまま、千絵の椅子に座ると部屋の中をざっと見渡す。「ねえ、もう少し片付けたら」
「え? 片付いてるでしょ」千絵は不思議そうに首を傾げる。
どこをどう見れば片付いていると言えるのか。
床には読みかけの漫画や雑誌、部屋の中央にある小さな丸テーブルには化粧品が転がり、勉強机にある教科書やノートは科目など一切揃えられずに適当に積み上げられている。
以前、掃除をするためにこの部屋に入ったときには、さらにベッドの上に服や下着が脱ぎ散らかしてあった。
そのときは本気で説教をした。
しかし、今日は別の目的がある。
小言を言いたいのを抑え、百合は千絵の顔を見つめる。
「ねえ、お姉ちゃ――」
「お説教なら勘弁して」
「……まだ、何も言ってないんだけど」
「どうせ、さっきの食事の時のことでしょ?」
「まあ……」
機先を制された百合は言葉を詰まらせる。
「百合の言いたいことは分かるんだけどね。こればっかりは私とあの人の問題だから。……っていうか、私の問題?」
「え?」最後がよく聞き取れず、百合が聞き返す。
「割り切れないこともあるってこと」
どうにもこの姉は肝心なことを言わない癖がある。おかげでなぜ彼女と一孝の仲が険悪になったのか、その決定的な理由が分からないでいる。
「でもさ」仕切り直すように百合が言う。「このままじゃ良くないよ。お父さんにとっても、お姉ちゃんにとっても」
「別に私は――」
「それに、私も嫌だし。いつまでもこんなギスギスしてるの。今日だって、せっかく久しぶりに家族三人で食事だったていうのに……」
少し嫌みったらしく言ってしまった。
だが、それを聞いた千絵はシュンとなっている。
「……百合には悪いと思っているわ」
「だったら、少しくらいお父さんの話も聞いてあげたってよくない?」
「そんなの無意味よ」
「どうして?」
「あの人が何を言ったって、私はもうあの人の言葉を信じることが出来ないもの」千絵はそう言うと、ベッドに仰向けになって寝転がる。「あの人が百合の命より仕事を取ったあの日から」
「でも、それは……」
仕方がないこと。そう言おうとして百合は口を噤んだ。仕方がないで割り切れない何かが百合の中にもたしかにあった。百合は入院中、自分が家族の負担になっているということに自覚があった。そして、その負い目が無意識に一孝を肯定していた。だが、本当はショックだったのだ。一孝が自分の命よりも仕事を選んでいたということが。家族とは無条件で相手を思いやるものだと、百合は信じていた。
それはきっと千絵も同じだったはずだ。
「私には無理。どうしたって割り切れない。あの人を見るだけでイラつくし、声を聞いただけで腹が立つ。足音がするだけで気が逆立って来るのが分かるの」目を腕で隠した千絵の声は微かにくぐもっていた。「それに、あの人だって私とは話したくないって思ってるみたいだし……」
「そんなことないよ! だって、お父さんは――」
「ごめん、百合。もう眠いから出て行ってくれる」千絵の声には、はっきりとした拒絶の色が浮かんでいた。
「お姉ちゃん……」これ以上は無理だと悟った百合は言われるまま部屋の外へ向かった。「おやすみ、お姉ちゃん」
千絵の部屋を出ると、百合は深い溜息をついた。
これまでも色々と策を弄して来たのだ。根が深いことくらい理解しているつもりだった。だが、これは自分ではどうにもならないかもしれない。
家族の問題。さっきそう一孝に嘯いておきながら、もう音を上げそうになっている自分がいる。
このままではいけない。
そう思った百合はタオルと着替えを持って浴室へと向かった。
無性に熱いシャワーを浴びたくなった。
次回は、2026年04月20日 18時10分 投稿予定です。




