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第三十六話

 食卓に三人分の食器が用意されているのは気のせいだろうか。

 夏休み最終日の夕方。

千絵は目を軽く擦ると、台所で夕食の準備をしている百合に尋ねた。

「ねえ、百合。どうして食器が三人分あるの?」

「あれ、言ってなかったけ?」わざとらしくとぼけて百合が答える。「今日、お父さん、久々に早く帰って来るんだって」

「何それ? 聞いてないんだけど?」

「うん。言ったら、お姉ちゃん、絶対逃げるし」

 百合は時々、こうして余計なおせっかいを焼く。それは以前からあったことだったが、百合が退院してからはさらに露骨になっていた。

 千絵と一孝の仲が良くないのは今に始まったことではない。二人の不仲は千絵の母親である十華が亡くなってからずっと続いている。

 以前、一孝は地元の小さな自動車工場で修理工として働いていた。塗料のついたツナギと油に塗れた彼の手は今でも千絵の記憶に残っている。この頃はまだ千絵と一孝の仲は悪くなかった。むしろ百合よりも千絵の方が一孝に懐いていた。

 しかし、十華が病で亡くなってから少しずつ歯車が狂い始めた。いや、亡くなるまえからすでに狂い始めていた。十華が入院中、一孝はあまり病院に顔を出さなかった。この頃から一孝は似合わないスーツに身を包み夜遅くに帰って来るようになっていた。

 どうしてこんな時にお母さんを一人にしておくの。日を追うごとに弱って行く母親の姿を見ながら千絵はそんな風に思っていた。

学校帰りにお見舞いに行ったとき、一度だけ千絵はその不満を十華に話したことがあった。だが、十華は一孝を責めるようなことは一切言わなかった。

それから病が進行し、十華はあっさりと息を引き取った。本当にあっさりと。人はこんなに簡単に死んでしまうものなのかと、千絵はしばらく十華の死を受け入れることが出来なかった。

だが、一孝は違った。彼は十華が亡くなると、それまで以上に仕事にのめり込むようになって行った。毎晩のように酒と香水の匂いをスーツに染み込ませて家に帰って来るようになった。そこには千絵の知らない別の女の匂いも混じっていた。

 信じられなかった。自分の妻が亡くなったばかりだというのに。この人はもう外に別の女を作っている。このとき抱いた一孝に対する嫌悪感は未だ薄れることはなく、濃い染みとなって千絵の中に残っている。

 それでも軽蔑をすることはあっても、一孝を憎むようなことはなかった。十華の死は仕方のないことだと千絵も自分を納得させることは出来ていたし、その遠因を一孝に求めてもどうにもならないことだと理解もしていた。もしかしたら一孝は十華を失った悲しみを別の誰かに埋めてもらおうとしているのかもしれない。そんな想像を働かせることで、かろうじて千絵は一孝を肯定することが出来ていた。

 だが、それは千絵の希望が多分に含まれたものでしかなかった。百合の手術があった日、千絵はそれを思い知らされた。この人は本当に家族のことを何とも思ってはいない。その証拠にあの人は百合の命より仕事を優先した。

 あの日、千絵と一孝の仲が決定的に崩壊した。以来、千絵は一孝と家で顔を合わせても、口もきかず、目も合わせてはいない。まるでそこには誰もいないように振る舞っている。

 百合はそんな二人を見かねておせっかいを焼いているようだが、それは逆効果だ。千絵は一孝の顔を見るたび、彼を全力で罵りそうになるのをいつも必死で抑えているのだから。

 もし、これで一孝と一緒に食事なんてした日には、食事中、ずっと罵詈雑言を彼に浴びせ続けることになるだろう。

 だから、千絵は自分の食事の時間だけずらすように百合に言った。だが、百合はそれを、「絶対ダメ!」と言って拒否した。その声には有無を言わせぬ迫力があった。

「これ、もう決定事項だから」百合はにっこりと笑ってそう言った。

 拒否権を剥奪された千絵は力なく、「分かったわ」と答えた。


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