第三十五話
一学期が終り、夏休みに入った。
千絵の通う高校は県内でも有数の進学校だ。そのため、大半の生徒はこの夏休みを勉強に充てている。それは千絵も同じだったが、如何せん、集中が出来ない。去年まではそんなことはなかったのに。
千絵は漫然と続けていた数学の課題を一旦、切にすると、気分転換に外出することにした。外はもう夕方になっていたが、暑さは未だに残っていた。とりあえず参考書を見に行こうと駅前にある百貨店へと向かった。その中にある書店はこの辺りでは一番品揃えが豊富なので千絵はそこを度々利用していた。
百貨店まで千絵はバスを利用することにした。自転車で行っても良かったのだが、この暑さではとてもそんな気力は出て来なかった。百貨店に到着し、書店に入ると千絵はすぐに目当ての参考書を見つけた。それを買うためにレジに並んでいると、隣のレジに茉里奈の姿を見つけた。茉里奈はこの書店に併設されている文房具屋にノートを買いに来ていたらしく、清算を終えると千絵の傍までやって来た。
それから少し話をしてから、茉里奈の提案で百貨店内にあるカフェテリアに向かった。カフェテリアに到着すると、千絵は先に店の奥へ行って席を確保することにした。
その時、千絵の携帯が音を鳴らした。
千絵は携帯のディスプレイを見ると、苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。
『お疲れ様です。那由多です』
「はい。お疲れ様です」
『新しい仕事が入りましたので、ご連絡を差し上げました』
「そうですか。分かりました。それで日程の方は?」
『これから査定に入りますが、おそらくは一週間くらい先になるかと』
「分かりました。では予定を空けておくようにしておきます」
『よろしくお願いします。詳細はまた後日追ってご連絡しますので』
「はい」
『では、失礼します』
那由多は手短に用件だけを伝えて電話を切った。こちらとしても彼と長話など望んでいないので、それは好都合だった。ただ、電話をしていたとき自分の感情が顔に出ていたようでそれを茉里奈に指摘されてしまった。千絵は適当に誤魔化すと、フラペチーノのアイスを食べ始めた。
そして、容器の中身が半分くらいに減った頃、茉里奈から相談を持ちかけられた。茉里奈は隠しているつもりの様だったが、その相談の内容は明らかに彼女自身のことについてだった。
茉里奈は将来弁護士になりたいと言っていた。だが、どうやら茉里奈はその夢を目指し続けるべきかどうか悩んでいる様だった。
千絵にはこれといった夢や目標などはない。特に死神になってからは、そんなことを考えることさえ憚るようになっていた。だから、諦めるべきとも、諦めないべきとも言えなかった。どちらを言っても無責任な気がした。
それでも何か答えて上げたい。そう思った千絵は妹の百合の話をすることにした。百合が看護師を目指していること。自分がそれを応援したいと思っていること。それは茉里奈の質問に対して直接的な答えにはなっていなかったかもしれない。だが、茉里奈は聞いて良かったと言ってくれた。
その後、茉里奈との会話は穏やかに進み、日暮れと共に二人は店を出ることにした。気分転換に出掛けただけだったが正解だった。これで那由多からの電話がなかったら百点満点だったのだが。
それから六日後、千絵は一人の男性から命を買い取ることになった。
那由多から事前に伝えられた情報では、クライアントの名は柏木昌平といった。
――柏木?
おそらく気のせいだろう。
柏木などありふれた名字だ。
ほかに契約を行う場所として、いつも使われる公園が指定されていた。その公園は街外れにある寂れた公園で、千絵は那由多から教えられるまでその存在さえ知らなかった。それはきっとこの街に住む誰もが同じだろう。なぜなら、その公園はこの世のどんな地図にも記されていないからだ。
死神とは何なのか。
その張本人であるにも関わらず、千絵は未だにその実態を掴めずにいた。
千絵が契約の行われる公園に向かうと、そこではすでにクライアントの柏木が待っていた。彼は公園のベンチに腰掛けて空を見上げていた。その横顔を見て、千絵は不思議に思った。今まで千絵が契約を行って来た人たちは、皆一様に暗く、疲れ切ったような顔をしていた。しかし、この柏木という人にはそれがない。彼の目には何か強い意志の様なものが感じられた。
それは契約の最終確認を行っている間も変わらなかった。
「随分と落ち着いていらっしゃいますね」
柏木が契約書にサインをしようとしている時、それまで業務に忠実だった千絵の口が勝手に動いた。
余計な事を言ってしまった。そう思ったが千絵は自分の口を閉じることが出来なかった。これから命を売ろうとしているはずのこの人がこんなにも泰然としていられるのはなぜなのか。千絵はどうしても気になってしまった。
その訳を尋ねると、柏木は、「別に怖くない訳ではないですよ」と答えた。
「そんな風には見せませんが」
「ならきっと、守らなければならないものがあるからかもしれません」
「守らなければならないもの、ですか?」
「ええ」
「それは、一体――」
千絵はそう尋ねようとして、今度こそ口を噤んだ。
最近、仕事に慣れて来たせいか、余計な事を口走ってしまうことがある。初めの頃はそんな余裕さえなかったが、少し前から顧客がなぜ命を売ろうとしたのか気になってしまうようになっていた。彼らが命を売ってでもお金を得なければならない理由は何なのか。
その答えを、この柏木なら知っているような気がした。彼の言った守らなければならないもの。そこに答えがあるような気がした。
だが、その関心こそが敵であることを千絵は知っていた。顧客に興味を抱けば抱くほど、鎌を振り上げた手は重くなる。
千絵はすぐに死神としても体裁を取り戻すと、最後の儀式に取り掛かった。




