第三十四話
死神になる契約は思っていたよりもずっと事務的なものだった。千絵は那由多に渡された契約書にサインをすると、そこに印を押した。この印が血判でなかったら、本当に単なる雇用契約書に見えたことだろう。
だが、その契約の効果はすぐに現れた。千絵が契約書にサインを終えると、不意にあたりが真っ暗になった。そして、次の瞬間にはあたりの景色が手術の終わった時間へと戻っていた。
手術室のランプが消え、再び、二人の医師がそこから出て来た。彼らは笑顔で千絵に手術が無事成功したことを伝えた。
その後、面会が可能になると、千絵は病室のベッドで窓の外を眺めていた百合を思いきり抱きしめた。
本当だ。本当に百合が生き返った。
千絵は歓喜に打ち震えながら、百合の顔を見た。だが、百合はこちらを見ようとはせず、ずっと窓の外を見ていた。その視線の先に何があるのか。千絵が百合と同じ方へ目を向けると、そこには窓に映った自分の姿があった。そのもう一人の自分は醜く歪んだ笑みを浮かべると、見慣れたあの大鎌を持って窓からこちらに飛び出して来た。そして、千絵たち目がけて大きく鎌を振り上げた。千絵は慌てて百合を連れてその場から逃げ出そうとした。
しかし、
「ダメだよ、お姉ちゃん」ものすごい力で千絵にしがみ付いたまま、百合が言った。「もう、逃げられないよ」
それを聞いて千絵は動きを止める。
「逃げられない、か」
千絵はそう呟くと、刃が振り下ろされるのをじっと待った。
目蓋を開けると、千絵は机の上にある時計に目を向けた。時刻は深夜の二時を指していた。
千絵は軽く息を吐き出すと体を起こした。すると、ひどく喉が渇いていることに気付いた。どうやら、無意識にエアコンの電源を切っていたようだ。千絵は傍に置いてあったはずのリモコンを手探りで探した。
死神になってからもう半年以上が経過していた。その間、多くの人の命を刈り取って来たが、未だ那由多と契約した千年には程遠い。
あと何回、あの鎌を振り下ろせばよいのだろうか。リモコンを探している間にも千絵の頭の中にはそんな思考が絶えず行き交っていた。
きっと、まだ昨日の余韻が残っているのだろう。千絵は昨日、一人の男性の命を買い取っていた。そのとき余計なことを言ったせいで、危うく那由多から叱責を受ける所だった。
『後悔しませんか?』
千絵はクライアントにそう尋ねていた。
なぜ、あんなことを口にしたのだろう。悲壮な表情を浮かべるクライアントに同情したのか。それとも無意識に相手の翻意を願ってしまったのか。いずれにしてもあれは失言だった。
『あなたの仕事はクライアントから契約書にサインを頂くこと。そして、黙って鎌を振り下ろすこと。この二つだけです。それ以外余計なことをしてはなりません。ただ、商品を買い取る。それだけを考えて下さい』
死神になった時、千絵は那由多からそう言いつけられた。そして、昨日まで千絵はその言いつけを忠実に守って来た。
百合の命を繋ぎ止めるためなら自分はどんなことだってする。死神になったとき、千絵はそう誓った。たとえそれが人の命を奪うような行為だとしても。
だが、あの鎌を振り下ろす度に感じてしまう。
人の命というもは、こんなに軽いものなだったのか、と。
千絵は枕の下敷きになっていたリモコンを見つけ出すと、再び、エアコンの電源を入れた。そして、タンスから別の寝間着を取り出すと、汗を拭き、着替えを済ませた。そのまま使ったタオルと着替えた寝間着を一階の洗濯機のところまで持って行った。ついでに水を飲もうとキッチンまで向かうと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。千絵はそれをコップに移し替えると、一気に中身を飲み干した。ほっと息をつき、コップを流しに出そうとしたとき、そのコップが手から滑り落ちた。
「……ああ、やっちゃった」割れたコップを見下ろして千絵は言った。
お気に入りのコップだったのだが。
千絵が割れたコップの破片を集めていると、二階から百合が下りて来た。
「お姉ちゃん、こんな時間にどうしたの? 何か変な音が聞こえたけど」
「ええ、ちょっと寝付けなくて。水を飲みに下りて来たんだけど……。そしたら、コップを割っちゃって」
「ああ、それで……。ちょっと待っててね」百合はそう言うと、すぐに塵取りと箒を持って来た。
千絵はそれを受け取ると、割れたコップを片付ける。
「ごめんね。起こしちゃって」コップを片付け終わると千絵は言った。
「いいよ。私もちょうど喉が渇いてたから」百合はそう答えると、自分も一杯水を飲む。
「飲み終わったら寝ましょうか」
「うん」
百合がそう答えると、千絵はそっと彼女の頭を撫でた。
「なに?」
「別に。ただ、何となく」
「変なの」百合はクスリと笑った。
「そうね」
千絵は優しく微笑むと、百合と一緒に二階へと戻った。




