第三十二話
不快な、もっと言えば悍ましいとさえ感じる笑顔だった。
形だけ整えられたその笑顔からはおおよそ感情というものが見当たらず、人はこんな風に笑えるものなのかと思った。
薄く開いた目蓋の奥に見える双眸は暗く、まるで深い井戸の底を覗いているようだった。
その瞳が微かに感情の色を持って千絵の瞳を見つめて来た。
すると、全身に鳥肌が立ち、千絵は身動きがまるで取れなくなった。さながら蛇に睨まれた蛙の如く、千絵は男の視線にじっと耐え続けた。
それは男が瞬きをする程度の時間だったが、千絵には永遠の様に長く感じた。
男は千絵から視線を逸らすと、「なるほど」と、一人納得したように頷いた。
「良い目をしていますね。儚く、脆い、人の弱さがよく出ている。しかし、決して折れない芯の強さがある。……まさに理想的です」
「何、を?」呼吸の仕方を忘れてしまったかのような息苦しさを感じながら千絵が言った。
それを見て、男は一歩下がって会釈をする。
「失礼致しました。私、実はこういう者でして」男はそう言うと、千絵に一枚の名刺を差し出した。
そこには『Life-buyer』というよく分からない肩書と、男の名前だろうか『那由多』という文字が刻まれていた。
千絵には今まで名刺など受け取った経験はなかったが、真っ先に胡散臭いという感想が頭に浮かんだ。
「あの……」千絵は訝しげな表情で言う。「私に何かご用ですか?」
「はい。実は天音千絵さん、あなたに折り入ってご相談したいことがございます」
「相談?」
「はい」
那由多がなぜ自分の名前を知っているのか、その目的は何なのか。疑問は次々と浮かんで来たが、今はそんなことに構っている場合ではない。
千絵は那由多と極力目を合わせないようにしながら答える。
「ごめんなさい。今、取り込んでいますから」
「妹さんの手術ですね」間、髪を入れずに那由多が言った。
「どうして――」
そのことを、と千絵が言葉を詰まらせていると、那由多が口を開く。
「私の言った相談というのが、その妹さんにも深く関わるものですので」
「百合と?」
「はい」那由多はそう答えると、急に神妙な顔つきを見せる。「天音千絵さん。こんなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、このままでは妹さんは間違いなく、お亡くなります」
「なっ……」
あまりに不謹慎な物言いに、千絵は開いた口が塞がらず、数秒間、そのままの状態でいた。だが、やがて内側からふつふつと煮え滾るような怒りが湧き出すのを感じた。張り倒してやりたいという衝動をギリギリの所で踏み留まると、千絵は那由多を全力で睨み付けた。
その目に那由多が肩を竦める。
「お怒りはごもっとも。しかし、私の言ったことは紛れもない真実です。このままでは、あなたの妹さんは――」
「やめてください!」千絵の悲鳴のような声が廊下に響く。「何なんですか、あなたは⁉ いきなり現れてそんなこと……。何か私たちに恨みでもあるんですか?」
「滅相もありません。私はただ、初めに申し上げました通り、あなたにご相談があって参ったのです」
「何ですか、その相談って⁉」
怒りに任せて千絵が言うと、那由多がまたあの嫌な笑みを浮かべる。そして勿体つけるようなゆっくりとした口調で答える。
「天音千絵さん。あなた――」
那由多がそう言いかけた時、手術室の扉が開いた。




