第三十一話
百合の手術が行われる前日、千絵は父親である一孝の部屋に呼ばれていた。
大切な話があると聞かされていたので、百合のことだとは察しがついていた。
「話って何?」千絵は一孝の部屋に入ると、単刀直入にそう言った。
「ああ」一孝は頷くと、言い辛そうに口を開いた。「明日の手術なんだが、仕事の関係でどうしても立ち会えそうもないんだ」
「は?」
「だから、手術にはお前一人で行って欲しい」
「え、ちょっと待って。どういうこと?」千絵は慌てて聞き返す。「手術に立ち会えないって、仕事でって、何それ?」
「すまない。どうしても外せない仕事なんだ」
「だからって、百合の命が掛かってるのよ⁉」
千絵はどうにか冷静に話そうと努めたが、感情を抑えることが出来なかった。責めるような口調で言う千絵に一孝は苦しそうに顔を歪める。
「分かってる」
「だったら……」
「すまない」
「嘘でしょ」千絵は呟くように言う。「信じられない。娘の命が掛かってるっていうのに」
「百合にもお前にも、申し訳ないと思っている。しかし――」
「言い訳なんて聞きたくないよ」千絵は吐き捨てる様に言った。「お母さんの時だってそうだった。あんたは結局、家族より仕事の方が大事なのよ!」
「ちがう、そうじゃない。私は――」何かを言いかけて一孝は口を噤む。
「私は何?」
「いや……」
弁解さえしない一孝に千絵は諦めたように言う。
「もういいよ。あんたになんか、もう何も期待してないから」千絵はそう言って一孝の部屋から出て行った。
その翌日、千絵は手術室の前にある長椅子に一人で座っていた。
正午に百合の手術が始まってから一時間が経過し、その間、千絵は天井からぶら下がった時計に何度も目を向けていた。その時計の針は遅々として進まず、まるで壊れてしまったかのように感じられた。
千絵は俯いては顔を上げ、時計の針と手術中のランプを交互に見続けた。そんな単調な行動をずっと繰り返していた。
百合の手術を担当する執刀医の先生はアメリカ人の男性だった。彼は手術前、千絵に最善を尽くすと言ってくれた。かろうじて聞き取れた彼の英語は自信に満ちており、千絵は少しだけ安心することが出来た。
だが、時間が経過するほどに不安が増して来る。千絵がせわしなく時計や手術室へと目を向けていると、不意に携帯電話が振動した。誰かがメールを送って来たようだった。千絵は携帯を見ると、すぐにそれをポケットにしまった。送り主は一孝だった。
あの男はどの面下げてメールなど送って来たのだろうか。百合よりも仕事を選んだ癖に。不安と苛立ちのせいで貧乏ゆすりが激しくなった。
やがて日が沈み、外の景色が暗くなった頃、執刀医とは別の医師が手術室から出て来た。それを見て千絵はすぐに立ち上がった。
「あの、百合は……。手術はどうなっていますか?」
千絵の質問に医師は小さく頷いて答える。
「手術自体は順調です――」
それを聞いて、千絵は胸を撫で下ろす。しかし、
「――ただ、百合さんの体力はもう限界まで来ています。正直なところ、かなり危険な状態です」
「え……」
「最悪の状況も覚悟しておいて下さい」
それを聞いた千絵は足元がふらつくのを感じた。その後も医師が何かを話していたが、まるで耳に入って来なかった。
百合が死ぬ?
そんなことは考えたくはない。
だが、その現実が目の前で起ころうとしていた。
どれくらいそうしていただろうか。
千絵が虚空を見つめたまま、ぼんやりとしていると、その耳に廊下を鳴らす足音が聞こえて来た。
かつかつと、一定のリズムを刻むその足音は千絵の前まで来ると、そこでぴたりと止んだ。
「――天音千絵さんですね」
名前を呼ばれ千絵が顔を上げると、そこには不気味に笑う死神の姿があった。




