第三十話
百合は幼いころからよく体調を崩していた。
そんな時はいつも千絵が百合の面倒をみていた。
『ごめんね、お姉ちゃん』
これが百合の幼い頃の口癖だった。
たとえ身内であっても、自分が人に面倒を掛けていることを百合は心苦しく思っていたようだった。その傾向は百合が病気で入院をするようになってからより一層強くなっていった。
千絵が見舞いに行ったとき、看護師から言われたことがある。
『もう少し、甘えさせてあげて下さい』と。
あの子は人に気を使い過ぎる。
それは百合の美点でもあり、悪癖でもあった。一番辛いはずの自分を差し置いて他人に気を使ってしまう百合の在り方が千絵は心配でならなかった。
百合の病気が発症したのは、彼女が中学二年の春だった。その病は非常に特殊で執刀できる医師は限られていた。しかも、手術をしても助かる見込みはかなり低いという。それを聞いたとき、千絵は足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。
どうして百合がこんな目に。
目を覆いたくなるような現実に千絵が頭を抱えていると、さらに、もう一つの事実を知らされた。その病は亡くなった千絵たちの母親が患っていたものと同じものだった。
お母さん、百合を連れて行かないで。
当時の千絵は神や霊魂などというものを信じてはいなかった。
それでもそう思わずにはいられなかった。
何でもいい。ただ、何かに縋りついていなければ、妹を失うかもしれないという恐怖に耐えられなかった。
だが、ある日、千絵は見てしまった。誰もいない病室で一人、声を殺して泣いている百合の姿を。百合は昔から人に気を使っても、弱音を吐いたことはなかった。実の姉である千絵の前でも涙を流したことはほとんどなかった。あるとしたら母親が亡くなった時くらいだろうか。多分、それが百合なりの矜持なのだろう。そう千絵は思った。体が弱い分、せめて心だけは強くあろうと。その日、人目を忍んで泣く百合に千絵が声を掛けることはなかった。
代わりに誓った。
何があっても百合を守ろうと。
それからは百合の前では千絵は努めて明るく振る舞う様にした。滞っていた百合の勉強も出来る限り一緒に見て上げるようにもした。苦手な家事も自分なりに頑張った。だが、百合の病状は確実に悪化していった。肉体的にも精神的にも百合は目に見えてやつれて行った。言葉にこそ出さなかったが、その苦痛は見ているこっちが辛くなるものだった。
もしかしたらこのまま……。
そんな不安に押しつぶされそうになる度に、本当に辛いのは百合なのだと自分に言い聞かせた。
その思いが通じたのか、百合の手術を執刀してもいいという医師が現れた。その医師は百合と同じような患者の手術を何度も行ったことがあるらしく、医療データの提供を条件に手術を引き受けてくれたそうだ。ただ、危険な手術であることは変わらない。それでも百合はその手術を受けるつもりの様だった。
父親からその話を聞かされた千絵はすぐに百合の元へと向かった。
『……百合、手術受けるの?』
『うん』
『大丈夫? 怖くない?』
『怖いよ。でも、私、叶えたい夢があるから』
『夢?』
『うん。私ね、将来は看護師になりたいの』
『看護師?』
『そう。この病院で私に親切にしてくれた看護師さんたちみたいに、私も病気で苦しむ人たちの支えになってあげたいの』
『百合……』
『難しい手術だってことは分かってるんだけどね。でも、もう決めたから』
そう言った百合の表情は強い決意に満ちていた。それは今まで千絵が見て来た妹のどんな表情とも違っていた。
百合の決意を否定するつもりは千絵には毛頭なかった。
ただ、今、百合がどんな気持ちでいるのかが気になっていた。
もし百合が不安になっているのなら。
それなら……。
『あの、百合――』
『ごめんね、お姉ちゃん』
『えっ?』百合に言葉を遮られ、千絵はいつの間にか俯いていた顔を上げた。
そこには真っ直ぐ見つめる百合の瞳があった。そして、その瞳には泣きそうになっている自分の顔が映っていた。
何のことはない。
百合が手術を受けるのを怖がっていたのは自分の方だった。
固く握られていた千絵の手から力が抜ける。
すると、百合がもう一度決意を込めて口を開く。
『私、手術を受けるよ』
それは人に気を使ってばかりいた百合が初めて言った我儘とも言えない我儘だった。




