第二十九話
結局、家を出たのはいつもと変わらない時間帯だった。千絵の高校も百合の通う中学校も自宅からそれほど離れていない。とはいえ、あまり余裕のある時間ではない。千絵が慌ただしく家の扉を開けると、百合が苦言を呈す。
「お姉ちゃん。いつものことだけど、もうすこし早く起きてね」
「善処します」
千絵がそう答えると、百合は諦めたような嘆息をついた。
そのまま二人は通学路を急ぎ足で歩いた。その途中で千絵の同級生の柏木茉里奈と会った。その時、百合が千絵の愚痴を茉里奈に言ったせいで、後ほど千絵は茉里奈から軽くお説教を受けた。
学校に着いてから一時間目の授業が終わると、千絵の眠気は既にピークに達していた。そこから先の授業はほとんど集中が出来ず、ひたすら睡魔との戦いが続いた。それでも最後まで授業を受け続けたことに関しては自分を褒めて上げたい。今日は帰ったらすぐに寝ようと心に固く誓っていると、下駄箱で茉里奈に声を掛けられた。
「千絵、あんた、今日大丈夫だった?」
「大丈夫って何が?」
「何がって、あんた今日一日中具合悪そうにしてたじゃない。途中、先生に保健室行くか聞かれてたし」
「ああ、大丈夫よ。ちょっと寝不足だっただけだから」
「寝不足ねえ」茉里奈はそう言うと、物言いたげな視線を千絵に送る。
「何?」
「いや、それってもしかして例のバイトのせいだったりするのかなって」
「別にそういう訳じゃないけど」
千絵が目を泳がせながらそう答えると、茉里奈が嘆息をつく。
「まあ、言いたくないならいいんだけどね……」
茉里奈は千絵が隠し事をしていることに気付いているようだった。だが、茉里奈はそれについて深く言及したりはしない。千絵はそのことを有り難く思ったが、反面、申し訳なくも思った。それでも自分の秘密を打ち明けることは出来ない。どんな理由があったとしても自分の行っていることは決して許されることではないと分かっていた。
帰り道は茉里奈とおしゃべりをしながら歩いた。その途中、会話が一度途切れた時、何の脈絡もなく茉里奈が言った。
「そういえばさ、最近、百合ちゃん具合はどう?」
言い出すきっかけを探しあぐねていたのだろう。茉里奈にしては雑な会話の方向転換だった。だが、茉里奈が言わんとしていることは千絵にはすぐに分かった。
つい半年前、百合は難しい手術を行っていた。その手術は無事成功し、百合も今では元気に生活をしている。それでも月に一回は定期的に検査を受けている。茉里奈はそんな百合の具合を心配してくれている様だった。
「朝見た通りよ。おかげさまで元気が有り余ってるみたい」
「そう」茉里奈は安心した様子で言った。「でも、そうよね。もう、手術から半年も経つんだから」
「お医者さまからは驚異的な回復力だって驚かれたけどね」苦笑しながら千絵は言う。
「確かに驚異的よね」茉里奈が頷く。「百合ちゃんが入院してた頃、私もお見舞いに行ったけど、今のあの子とはまるで別人だったもの」
「そう、ね……」喉に何かかがつっかえたように千絵が答える。
「あ、ごめん。私、余計なこと言った?」
「ううん。そんなことないよ。たしかにあの頃の百合は今とは全然違ったから」思い出すようにそう言うと、千絵は茉里奈に笑顔を向ける。「心配してくれてありがとね」
「別に……。当たり前のことだし」そっぽを向いて茉里奈が言う。
「あ、もしかして照れてる?」
「照れてない!」茉里奈はそう答えると、分かれ道を右に曲がる。「じゃあ、また明日ね」
「うん、また」
千絵は茉里奈の後姿を見送ると、分かれ道を左へと曲がった。
少しだけ足取りが軽くなっていた。




