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第二十八話

 最後に時計を確認したのは午前六時三十分頃だった。

 天音千絵は薄く目蓋を開くと机の上にある時計に目を向ける。現在の時刻は午前七時三十分。寝付いてからまだ一時間程しか経っていない。

 浅く、短く、そして中途半端な睡眠が千絵に与えたのは回復ではなく、いっそ寝なければ良かったと思えるようなひどい倦怠感だった。昨日は仕事から帰った後、すぐにベッドに入った。だが、結局は朝方まで寝付くことが出来なかった。

 仕事の後はいつもこうだ。千絵は布団の中で悪態を付いた。命を刈り取った罪の感覚は一晩経っても消えることはなく、千絵の体に残り続けていた。

 死神になってから半年。その間に多くの人の命を刈り取って来た。だが、未だこの感覚には慣れることが出来なかった。

 千絵は深く息を吐き出すと再び目を瞑った。今はまだ動きたくない。そんな欲求が彼女を微睡の中へと引き摺り込んで行く。今度こそ心地よい眠りに付けそうだ。彼女にとって二度寝こそ何物にも代え難い至福の時間だった。

 だが、そんな些細な幸福さえ彼女には許されなかった。部屋の扉が無遠慮にノックされると、次いで妹の百合の声が聞こえて来た。

「お姉ちゃん、起きてる?」

 千絵はその声を聞くと布団を頭まで被った。

「もう朝ごはん出来てるよ」

 今の千絵に必要なのは朝食ではない。あと五分、いや十分ばかりの惰眠だ。だから千絵は返事をしない。

「……お姉ちゃん?」

 扉の外から聞こえて来る声を無視し続けていると、勢いよく百合が部屋の中に乗り込んできた。彼女は千絵のベッドの前に立つと不機嫌そうな声で言い放つ。

「お姉ちゃん、いい加減起きてくれないかなあ? いつも、いつも起こす方の身にもなって欲しいんだけど」

 百合の口調はいつもより三割増しで怖かった。千絵は百合の様子を窺おうと、そっと布団から顔を出した。すると、勢いよく布団が引っ張られた。

「ほら、もう起きてよ。早くしないと遅刻するよ」

「あと五分だけー」

「お姉ちゃん。テンプレ過ぎるよ。そのセリフ」呆れたように百合が言う。「っていうか、そう言って、いつもギリギリまで起きないんだから。もう、早く起きる!」

 百合は一生懸命千絵を起こそうとした。しかし、千絵も布団にしがみ付いたままそれを放そうとしない。両者が布団の主導権を争っていると、不意に百合の片手がカーテンを開いた。すると、暴力的なまで光量で、朝日が部屋の中に差し込んで来た。

「うぇー。眩しー」今にも溶けてしまいそうな声で千絵が呻き声を上げる。

 その瞬間を見逃さず、百合は一気に千絵から布団を剥ぎ取った。

「ほら、起きて起きて! 早くしないと本当に遅刻するよ」

「うー」

情けない声と共に、千絵はようやく体を起こした。すると、その顔を見て、百合が、「うわっ」と声を上げる。

「お姉ちゃん、ひっどい顔してるよ」

「え?」千絵はぼけっとした顔を百合に向ける。

「なんかもう今にも死にそうな感じ」

「そう……」

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

「昨日、帰って来るの遅かったけど、どうしたの?」百合は心配そうな声で尋ねた。

「ええ、まあ……。ちょっと、友達の家で勉強しててね。そしたら思ったより長引いちゃって」

「へえ。それって茉里奈先輩?」

「いいえ、別の子だけど……」

「ふーん」百合が怪訝そうな顔を向ける。「まあ、いいけど。でも、遅くなるときは連絡してよね。こっちも心配するし」

「ごめんなさい」

「分かればよろしい」百合はそう言うと布団を放す。「じゃあ、私、先に行ってるから。支度が出来たらすぐ来てね」

 百合が部屋から出て行くと、千絵はほっと息を吐いた。当然のことだが、百合には今の仕事のことについて話してはいない。仕事で帰りが遅くなる時は大体友達との交際を理由に言い訳をしている。

 だが、それもいつまで通用するか。百合はあれで意外と勘が鋭い所がある。嘘が苦手な千絵はそれが態度に出ない様にするのに必死だった。百合にだけは何があってもこの秘密をばらす訳にはいかない。

 千絵は大きく伸びをすると着替えを始めた。先月、衣替えがあったので今は夏服となっている。白いワイシャツに袖を通し、スカートを穿くと姿見でおかしな所がないか確認する。制服はいつも百合がアイロンを掛けてくれているおかげで皺一つない。

しかし、

「これは確かに……」

 鏡に映った自分は、予想していたよりもずっとひどい顔をしていた。



 顔を洗って身支度を整えた千絵がリビングへ向かうと、百合がお冠になっていた。

「お姉ちゃん、遅い!」腰に手を当てて百合が言う。「もう時間無いよ」

「大丈夫よ」

 千絵は漫然とした様子で答えると、用意してあったサラダにフォークを伸ばす。サラダはレタス、きゅうり、トマト、そして輪切りになったゆで卵、それにオニオンドレッシングがかかっている。そのサラダを千絵はあっという間に平らげると、百合が淹れてくれたアイスコーヒーを胃に流し込む。

 ものの数分で朝食を終えた千絵は手を合わせると、「ご馳走様」と言った。

「それで本当に足りるの?」食事を終えた千絵に百合が尋ねた。

「ええ、十分よ」

「本当に? トーストだったら、すぐに焼けるけど?」

 それを聞いて千絵が苦笑する。

「時間が無いんじゃなかったの?」

「そうだけどさ……。もう少し食べないと、お昼までもたないよ」

「平気よ。私、燃費良いから」

 千絵はそう答えると、流しへ行って食器を洗い始めた。家事の内、食器洗いは千絵が唯一まともに出来るものだった。だからせめて食器洗いだけは千絵がやる様にしていた。

「お姉ちゃん、今日の夕食何がいい?」食器を洗っている千絵に百合が尋ねた。

「んー、何でも?」

「何でもって、それが一番困るんだけど……。まあ、いっか。お父さん、今日も遅くなるって言ってたし。簡単なもので」

 百合がそう言うと食器を洗っていた千絵の手が一瞬だけ止まった。

「また、残業?」千絵は努めて興味のない様な口調で尋ねる。

「みたいだね」そう答える百合の声はどことなく寂しそうだった。「本当は三人で一緒に食べられたら良いんだけど……。ねえ?」

 同意を求める百合に対し、千絵は、「別に」と冷たい返事をする。

「どうでもいいわよ。あんな人のことなんか」

「またそんなこと……。だめだよ、お姉ちゃん、そんなこと言っちゃ。お父さん、かわいそうだよ」諌めるように百合が言う。

 だが、千絵はそれには何も答えず、黙々と食器を洗い続けた。

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