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幕間2

 建物から立ち昇る煙が風に運ばれて行く。その先にある川沿いの桜並木のいくつかは、もうすでに花を咲かせ始めており、沙織は誘われるようにそちらへと足を運んだ。

 毎年、この季節には夫婦揃って花見をしていた。もっとも、花見と言っても、ただ桜の樹の下を散歩するだけで特別何かをする訳ではなかった。耕治が体を壊してからは、彼の車椅子を押して桜の樹の下を歩いた。たったそれだけのことだったが、こうして一人で桜の花を見上げていると、その時間がとても特別なものだったと気付かされた。

 耕治が息を引き取ったのは百合の高校受験の合格発表があった次の日のことだった。百合は合格の確認を終えたその足で葛西家までやって来てくれた。百合から合格の話を聞いた時、耕治は自分のことのように喜んでいた。その彼がまさか翌日に息を引き取るとは思ってもいなかった。

「……おばあちゃん」

 ぼんやりと桜の樹を見上げていた沙織に、百合が遠慮がちに声を掛けて来た。百合の目の周りは真っ赤に腫れている。さっきまでずっと泣いていたのだから仕方がない。沙織は、「いらっしゃい」と言って、百合を手招きすると一緒に桜の樹を見上げた。

「ありがとうね、百合ちゃん」

「え?」

「最後にあの人に会ってくれて」

「ううん」百合は俯いて答える。「……実は合格発表があったあの日、お姉ちゃんからすぐに葛西さんたちに報告しに行けって言われたの。あの時、もしお姉ちゃんにそう言われなかったら、きっと私、最後までおじいちゃんに会えなかったと思う」

「そうだったの。なら、千絵さんにも感謝しないといけないわね」

「うん……」そう答えた百合の肩が小さく震える。「どうして、おじいちゃん。あんなに元気だったのに……」

 百合は涙を堪えようとしていたが、その瞳からポタポタと雫が溢れ出す。それを沙織はハンカチで優しく拭き取った。

 耕治の死因は老衰だった。たしかに早過ぎる死ではあったが、こればかりはどうにもならない。それは沙織も理解していた。だが、それでも内から込み上げて来る悲しみを抑えることは出来なかった。

 どうしてこんなに早く。

沙織は火葬場のある方を見て思った。

 自分が耕治を支えなければいけない。沙織はずっとそう思い続けて来た。だが、そうして緊張を強い続けて来た結果、先に自分の方が気を病んでしまった。

 特に去年倒れてからは自分を制御することが出来なくなっていた。

 物に当たり散らし、あまつさえ耕治に罵声を浴びせたりもした。

 このままではいけないと思った。だがどうすれば良いかは分からなかった。そんな時だった。年明けに行われた町内会の集まりで、沙織の様子がおかしかったことに気付いた人たちが話しかけて来た。その中には沙織と同じ様な悩みを抱える人もいた。その人の勧めで医師のカウンセリングを受けた。

 生来、沙織は楽観的な性格をしていた。そのためあまり大きな悩みを抱えたことがなかった。あったとしても今までは自分でどうにか処理出来ていた。だが、耕治が体を壊し、自分が彼の支えにならなければと思い始めてから、少しずつ沙織の中でストレスが蓄積して行った。そんな時どうすればいいのか。経験上、有効な対処方法を持たなかった沙織はその問題をずっと一人で抱えてしまっていた。

 最近、カウンセリングを受け、人に相談することで少しずつ改善が見られるようになって来たというのに。まさかこんなに早く逝ってしまうとは思っていなかった。

 どうしてもっと早く誰かを頼らなかったのか。そうすればもっと違う形で耕治を送り出せたかもしれないのに。

 昇って行く煙が空へと溶けて行くのを見上げながら、沙織がそんなことを考えていると、桜並木の向こうから喪服を着た男性がこちらに近づいて来た。

 彼は沙織の前までやって来ると、恭しく一礼をした。

「あの……」沙織は戸惑いながら口を開く。

 今日の葬儀の出席者ではない。少なくとも沙織はこの男性の顔を見たことはない。だが、彼は沙織の顔を見て、真っ直ぐにこちらにやって来た。

「初めまして。葛西沙織さんですね。私はこういう者です」男はそう言って、沙織に一枚の名刺を手渡した。

「ライフバイヤー。那由多さん?」

「はい。まあ、世間でいうところの所謂、死神です」男は笑ってそう答える。

「死神?」沙織はそう言って一歩後退する。「死神が、どうしてここに? 私に何の用が……」

「ああ、どうか、そんなに怖がらないで下さい。あなたに契約を持ちかけようとかそういうつもりは毛頭ありませんから。私はただ、アフターサービスの為に伺っただけでして」

「アフターサービス?」

「ええ。実は、生前、ご主人から命を一部、お売り頂いたことがありまして」

「え?」

「その際、お支払したお金なんですが。このまま何の手続きのしないまま相続しますと、余計な税金が掛けられてしまうものですから――」

「あ、あの、ちょっと待ってください!」沙織は悲鳴のような声を上げて言った。「あの人が命を売ったって、そんなの何かの間違いじゃ?」

「いえ。間違いではございません」那由多はそう言って、耕治のサインした契約書を差し出した。

 沙織はそれを凝視してから、「あの人の字だわ」と言った。

「でも、どうして、あの人が……?」

「詳しいことは私も存じ上げませんが、彼が契約をする少し前にそれを決めるきっかけがあったようです」

「契約をする前?」

 沙織が契約書の日付を確認すると、一月のとある日付が記されていた。それを見て、沙織はある出来事を思い出す。

 まさか、あれが原因だったのでは?

「何かお心当たりが?」

 顔色の変わった沙織を見て那由多が尋ねる。

 しかし、その声が沙織の耳に届く気配はない。

 沙織はただ茫然と契約書を見つめていた。

 そんな沙織の様子を見兼ねて、それまで黙って傍についていた百合が声を掛けて来た。

「おばあちゃん、大丈夫?」

「え、ええ……。ありがとう、百合ちゃん。大丈夫よ」

 沙織は弱々しく笑ってそう答える。

 それを見た百合はキッと鋭い視線を那由多に送る。

「あなたはおばあちゃんに何の用があって来たんですか?」沙織を守るように前に出て百合が言った。

 すると那由多は百合の顔を興味深そうに見つめてから質問に答える。

「さきほども申し上げましたが、このままではご主人が命を売ってまで得たお金に不要な税金が掛かってしまいます。そうならないために必要な手続きがございますので、それをお伝えに参りました」

 那由多はそう言うと、詳しい資料を沙織に渡した。

 沙織はそれに軽く目を通すと、諦観の籠った声で言う。

「命を売ったお金にも税金が掛かるんですね」

「このままでは」

「そうですか、分かりました……」沙織はそう言うと、那由多に頭を下げる。「わざわざ、ありがとうございました」

「おばあちゃん!」死神に頭を下げる沙織に納得できない様子で千絵が声を上げる。

「ですが――」沙織は頭を下げたまま続ける。「もう二度と私の前に姿を現さないで下さい」

「分かりました」

那由多は姿勢を正して深々と一礼すると、その場から去って行った。



 後日、耕治の遺品を整理していると、見たことが無いアタッシュケースを発見した。中を改めると、そこには大金が詰まっており、一目でそれが耕治が命を売って得たお金であると分かった。アタッシュケースの中には、現金の他に封筒と一通の手紙が入っていた。

 封筒には、耕治が亡くなったあと、このお金に余計な税金が掛からないようにするために必要な手続きについて書かれた資料が入れられていた。それは先日、那由多に渡されたものと同じ資料だった。

 そして、手紙には耕治が命を売った理由が記されていた。

 その手紙で、耕治は最期まで沙織の今後について心配していた。だが、沙織を責めるようなことは一言も書かれていなかった。それどころか、ずっと自分を支えて来てくれていた沙織に対し、感謝の言葉がそこら中に記されていた。ただ、沙織がこれからも幸せで生きてくれることを願う。そう書かれていた。

 沙織は手紙を読み終わると涙を流した。耕治が亡くなった時でさえ流れなかった涙が今は止めどなく溢れて来た。

 なぜ気が付かなかったのか。

 逼迫した生活に気を取られ、自分が本当は何を必要としていたのか忘れていた。

 手紙の中には、このお金を沙織の今後の生活資金とするようにと書かれていた。それを見て、沙織は近くにあった銀行のパンフレットに目を向けた。そこにはリバースモーゲージという仕組みについての説明が書かれていた。リバースモーゲージとは高齢者が自宅を担保に老後資金の融資を受け、自分の死後に自宅を処分して清算する方法を言う。沙織がこの仕組みを知ったのはつい最近のことだった。町内会で知り合った人が沙織にこんな仕組みもあることを教えてくれた。

 最悪、家を手放すことも覚悟していた沙織にとって、この仕組みはとても魅力的に見えた。滞留していた家庭内の淀んだ空気を解消するきっかけになるかもしれない。そう思った。

 しかし、それももう必要が無くなった。耕治が残してくれたこのお金があれば老後の心配はほぼなくなる。沙織は静かにアタッシュケースを閉じた。

「こんなものが欲しかったわけじゃないのに……」

 自分たちを本当に支えていたものが何なのか。

 今更になってそれを痛感させられた。

 沙織は涙で滲む目で手紙の最後に目を向ける。

『――いつの日か、君が私に言った言葉を覚えているだろうか。君は私に大丈夫ですよと言った。何を根拠にと思ったが、その言葉が今までずっと私を支えてくれていた。だから私も君に言おうと思う。君なら私がいなくても大丈夫だ。きっと大丈夫だと信じている』

 手紙を読み終わった沙織はそれを綺麗に畳むと、耕治の遺影へと向き直った。こちらに笑いかける耕治を見つめ、沙織は静かに口を開く。

「あの時、大丈夫って言ったのは、二人なら大丈夫って意味ですよ」呆れたように言った沙織の頬を涙が伝う。「まったく、あなたって人は。本当に……」

 やるせない思いが声になって溢れ出していた。

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