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第十八話

 百合が出て行った後、千絵と二人きりにされた耕治は、しばらくの間、会話の端緒を掴めずにいた。そもそも千絵とは顔見知り程度でしかない。性別も違う。年齢も大きく離れている。孫と言っても差し支えないほどだ。そんな彼女と共通する話題は一つしか思い浮かばなかった。

「そういえば……」沈黙に耐えかねたように耕治が口を開く。「百合ちゃんはまだ看護師を目指しているのかい?」

「あ、はい。……ご存じだったんですね」

「百合ちゃんが入院していた時、聞いたことがあったんだよ。将来は何になりたいのかってね。そうしたら看護師になりたいと答えてね。そのことで相談を受けたこともある」

 もっとも耕治は百合の相談に対して的確なアドバイスが出来たわけではない。耕治に出来たのはせいぜい勉強を頑張ることやこの病院の看護師さんの話を聞いてみることを勧めたくらいだ。それでも百合はそんな耕治の拙いアドバイスにも真剣に耳を傾けていた。

「百合は随分、葛西さんたちのことを信頼しているんですね」千絵はそう言うと少し寂しそうな顔を浮かべた。「私は、あの子から相談なんて受けたことはありませんでした。ただ、突然、将来、看護師になりという話を聞かされただけで……。あの時は本当に驚きました」

「きっと、彼女にも思う所があったのだろう」

「思うところ?」

「家族だからこそ話しづらいこともある」

「どういうことでしょうか?」

「そうだね……」耕治は当時の百合の状況を思い出しながら答えた。「これは私にも言えることだが怪我や病気をすると気持ちが荒んで来るものだ。特に百合ちゃんは若くして闘病生活を余儀なくされたんだ。その辛さは察するに余りある」

「はい」

「だが、あの子は決してそんな態度を人には見せなかった。少なくとも私は見たことが無い」

「私も、です……」

「気丈な子だよ、あの子は。自分が一番つらいはずなのに先に周りのことを気に掛ける。自分の体を心配する家族のことを心配する。私が同じ立場だったのなら、きっとあんな風には振る舞えなかっただろう」

「昔からでした。あの子、病弱でしたから私がいつも面倒をみていたんですけど、その度に、ごめんねお姉ちゃんって……」

「だから言い出せなかったんじゃないかな?」

 耕治の話を聞いて、千絵は何かに気付いた様に、「ああ、そうか」と呟く。

「あの子の病気はとても特殊なものだったのだろう?」

「はい……」

「闘病生活は常に不安が付き纏う。特に将来に対する不安は大きい。それは自分が抱えている病が重ければ重いほど大きくなるだろう」

「だから言わなかった。……言えなかった?」千絵は答えを求めるような口調で耕治に言った。

「おそらくは」

 自分の将来に不安があった百合には、看護師になりたいという、そんな夢さえ口にするのも憚られるように感じたのだろう。特に自分の身を案じている家族の前では余計にその思いが強くなった。だから言えなかった。

「その点、私ならただ病室が同じなだけの他人だから。話しても差し支えない」

「他人だなんてそんなことは……」千絵は首を振って言う。「でも、それならなぜあの子はいきなり看護師になるなんて私に言ったのでしょうか? それまでは黙っていたのに」

「それは――」言いかけて耕治は口を噤んだ。

 百合の夢が明確な目標になった出来事を耕治は知っていた。だが、それを自分の口から言っても良いものか判断がつかなかった。

 あの日、入院中の百合の元に彼女の父親が見舞いにやって来た。彼が百合の見舞いに来たのは数える程度だったので、その日のことはよく覚えていた。

 百合の見舞いを千絵に任せきりにしていた彼女たちの父親のことを、耕治はあまりよく思っていなかった。しかし、その日、カーテンを隔てた隣のベッドから漏れ聞こえて来た父娘の会話に、耕治がそれまで持っていた彼に対する印象はがらりと変わった。

『百合の手術をしてもいいというお医者様が見つかったよ』

『それ、本当⁉』

『ああ』

『…………』

『百合?』

『あの、……その手術ってやっぱり難しいんだよね?』

『そうだな』

『大丈夫なのかな?』

『不安か?』

『……少し』

『大丈夫だよ、百合。そのお医者様は過去に百合と同じような患者の手術を行って、無事成功させている』

『そうなの?』

『ああ。海外ではその道の権威で手術の為にわざわざこちらまでやって来て下さるそうだ』

『すごいね。よくそんな人が見つかったね』

『……そうだな。運が良かった』

『でも、その手術って、すごくお金が掛かるんじゃないの?』

『それについては心配いらない。百合の医療データを提出することで、手術代は免除してもらえることになったんだ』

『そうなの?』

『ああ。だから、あとは百合の気持ち次第なんだが。どうする?』

『受ける』

『いいのか? 危険な手術であることに変わりはないぞ』

『それでも受けるよ』

『そうか』

『あのね、お父さん。私、今、やりたいことが一杯あるの。普通に学校にも行きたいし、友達とも遊びたい。お父さんとお姉ちゃんはずぼらだから本当は私が家事をしなくちゃだし。それに……』

『それに?』

『私、大人になったら看護師になりたいの』

『看護師⁉』

『そう』

 百合は泣きそうな声で言った。それはまるで今まで溜まっていたものを吐き出しているかのようだった。

『なら、早く元気にならないといけないな』

 百合たちの父親は見た目はどこにでもいるくたびれた中年といった感じだった。顔立ちはあの姉妹の父親だけあって整ってはいたが、話す声には覇気がなく、言われなければ親子だとは誰も思わないだろう。

 だが、あの日、百合と話す彼の声はとても優しく慈愛に満ちていた。彼はきっと娘たちのためならどんなことでもするのではないか。耕治はそんな風に思った。

 百合が看護師になると本当に決意したのはおそらくこの時だろう。その決意が彼女の不安に打ち勝った。だから、百合は千絵に自分の目標を打ち明けたのだと耕治は考えていた。

 もし、会話がここで終わっていたのなら、耕治は千絵の質問に答えられたかもしれない。しかし、彼女たちの会話にはもう少しだけ続きがあった。

『あ、それからもう一つしたいことがあったんだ』

『なに?』

『お父さんとお姉ちゃんを昔みたいに仲良くすること』

 二人の会話から察するに、千絵と父親の仲は良好とはいえないようだった。だから、あの時の会話について千絵に話してよいものか耕治は判断に迷った。

 結局、「私にもよく分からない」と答えるしかなかった。

「まあ、あくまで私の当て推量だから……」

 耕治が肩を竦めてそう言うと、千絵は首を振る。

「いえ。あの子が私に気を使っていたことは薄々気づいていましたから。きっと、葛西さんの仰ったとおりだと思います。もしかしたらあの子が突然、私に打ち明け話をしたのは葛西さんに相談して、気持ちが固まったからなのかもしれませんね」

 もしそうなら感謝しないと、と千絵は笑顔を見せた。

 その笑顔は妹の百合と同じように明るく透き通っていた。

 耕治が年甲斐もなく若い娘の笑顔に見惚れそうになっていると、千絵の鞄のなかで携帯電話が震える音がした。

 千絵は携帯を取り出すと、そこには百合の名前が表示されていた。

「すみません、ちょっと……」耕治に軽く断ってから千絵は通話ボタンをプッシュする。「もしもし?」

『あ、お姉ちゃん……』

「百合、どうしたの?」

『えっとね。実は、今、病院にいるんだけど……』

「はい? どういうこと? あなた、たしか葛西さんの奥さんを探しに行ったんじゃ?」

『そうなんだけどね。実は……』


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