第十六話
いつからだろうか。
夜、眠りにつくまでの時間が異様に長く感じるようになったのは。
一日の大半を無為に過ごす自分の在り方、その現状が一体何によって招かれたものなのか。そんな思考が何の前触れもなくの頭の中に浮かんでは消える。
病気や怪我は人を弱らせる。体だけでなく心も。それは耕治も例外ではなかった。
百合が葛西家にやって来たその日、耕治の気分はいつもよりいくらか安らいでいた。それでも夜になり、布団に入ると次第に気分が沈んでいく。眠りにつこうと目蓋を閉じても思う様に寝付くことが出来ない。こういう時は決まって若い頃の記憶が蘇って来た。
昔、耕治は地元にある自動車会社の工場に勤めていた。そこは中卒で何のコネもなかった彼がようやく見つけた居場所だった。二十代の頃は現場の仕事を行い、三十台で現場の指揮を行う様になった。沙織と結婚したのもちょうどこの頃だった。いま思えば一番幸せな時期だった。そして四十台になると、いくつかのプロジェクトにも参加するようになった。
出世とは無縁ではあったが、日々の仕事にはそれなりの充足感を覚えていた。今、この国のどこかで自分が携わった仕事によって生まれた車が走っていると思うと、こんな自分にも出来ることがあるのだと思えた。
仕事に対する責任感は強く、反面、融通の利かない所もあった。そのせいで上司とぶつかったことも度々あった。それでも自分の扱う部品の一つ一つが誰かの命を乗せる車を作っているのだと考えると手を抜くことは出来なかった。
そんな彼が五十台の大台に乗った年だった。直接の上司を通し会社から解雇を言い渡された。巨大企業による大規模なリストラだった。営業成績の低迷に伴う合理的な判断。これによって当時多くの人が職を失うことになった。耕治もその内の一人だった。
無気力な日々が続いた。信じていた会社に裏切られたという思いが日を重ねるごと強くなった。行き場のない怒りが澱のように耕治の中に溜まって行った。
耕治はリストラされて初めて終身雇用という言葉が幻想であったということに気付いた。その言葉はまるで安定した将来を約束するかのような響きを持ち、自分の未来に対する不安を拭い去ってくれた。いや、当時の自分は不安さえ抱いていなかった。このまま同じ会社に勤め続け、定年で退職する。それが当たり前のものと疑ってさえいなかった。
当時の怒りは未だに耕治の腹の底に残っている。ただ、その怒りの矛先はもうリストラされた会社ではなくなっていた。結局のところすべては自己責任だったということだ。世間一般の慣習や他人の言葉を鵜呑みにしていた世間知らずだった自分に責任がある。
そう思わなければこの怒りは処理できなかった。
リストラ後、耕治は職を探してハローワークに通った。だが、年のいった彼を採用してくれる企業は中々見当たらなかった。ようやく見つけたのは市内にある小さな清掃会社だった。
だが、その会社からの給料だけでは生活が苦しく、耕治は他にいくつかのアルバイトの掛け持ちをした。定年も近づく老体にはその生活は厳しく、耕治は定年を前にして体を壊した。おかげでただでさえ雀の涙ほどの退職金がさらに少なくなった。
耕治は以前自動車工場に勤めていた時にマイホームの購入をしていた。ローンは三十年。耕治が退職をしたとき、そのローンはまだ大分残っていた。さらに体の自由がきかなくなったことにより、バリアフリー工事の改修が必要となった。
以前働いていた工場と清掃会社から出た退職金でそのローンと工事費用は何とか返済をすることは出来た。
だが、支払いで残った僅かな金額ではとても沙織との生活を支えることは出来なかった。
耕治と沙織は話し合った結果、年金の繰上げ受給を決めた 。通常、年金は六十五歳から支給される。しかし、繰上げ受給をすると支給される額がかなり少なくなる。ほかにも六十五歳前に障害状態や寡婦になると、障害基礎年金や寡婦年金の受給資格が発生しても受給が出来なくなってしまう。
そうなった時、もっとも心配なのは沙織ことだった。もし自分に何かあったら、沙織が障害を負ったら、その時は公的な援助は受けられる保証はない。
だが、そんな耕治の不安に対し、沙織はあっけらかんとした様子で言った。
『なる前からそんなこと考えても仕方ありませんよ。あなたは昔から何でもすぐに悪い方に考えてしまうから。でも、大丈夫ですよ。今までだって何だかんだで何とかなって来たんですから』
沙織の言葉には何の根拠もなかった。彼女は昔から楽観的で物事をあまり深く考えたりはしない。だが、その言葉には何か決意の様なものが感じられた。
目蓋を開けると、窓の外は明るくなり始めていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。だが、あまり寝覚めは良くない。二度寝する気分にもならず、耕治が体を起こすと、隣で寝ていた沙織が寝返りを打った。
あのとき沙織は何を思って大丈夫だと言ったのかは分からない。
ただ、あのときとは何かが変わってしまった。
それだけは、はっきりと分かっていた。




