第十二話
子供の教育費は文部科学省のホームページを参照しました。
ちなみに茉里奈は幼稚園が私立、小中高が公立の設定です。
夏休みに入ってから、茉里奈は塾の夏期講習に通っていた。
その塾には、この地域でトップクラスの成績を誇る優秀な生徒が集まって来る。油断をしていればすぐに置いて行かれてしまうという状況で茉里奈は常に緊張を保ったまま勉強を続けていた。
一学期の期末試験で成績を落としていた茉里奈はこの夏期講習で巻き返しを図ろうと決意していた。
しかし、先週の出来事が未だに頭から離れず、講義にも集中出来ずにいた。途中、講師の先生に気が抜けていると指摘を受け、それが余計に茉里奈を落ち込ませていた。
今日の講義が終わり、茉里奈は背中を丸めながら教室を出た。塾の廊下を歩き、出口へと向かうとその途中で塾のパンフレットが目に着いた。そこには決して安くはない塾の受講料が記載されていた。
茉里奈が学習塾に通い始めたのは中学一年生の頃。それは彼女が弁護士を目指したときとほぼ同じ時期だった。それを高校卒業まで続けたとすると費用はいくらになるのか。茉里奈は頭の中で計算した。
(こんなに……)
幼稚園から大学までにかかる教育費用の合計は通っている学校にもよるが、一人一千万円程度は掛かると、以前何かで聞いたことがあった。これで私立の学校に通っていたり、家庭教育費などを含めたりすると、その額は更に増える。以前は漠然と聞いていただけだったが、今、改めて考えると恐ろしい額だ。さらに自分が進学を志望している大学は自宅からは通えない距離にあるため、合格すれば当然部屋を借りることになる。そこで発生する生活費など諸々を加算して行くと大変な額になる。人一人を大学に進学させることがいかに大変なことか今更になってようやく実感が湧いてきた。
なぜ、今までこのことに目を向けて来なかったのかと、茉里奈は急に恥ずかしくなって来た。
だが、それは言いかえれば、茉里奈の両親がそのことを彼女が意識しないで良い環境を作って来た証拠でもある。子供に余計な心配を掛けさすまいとして来た両親の努力が結果として茉里奈を金銭的な面に対して盲目的にさせていた。
それを善悪で問うことは難しい。子供に余計な心配を掛けさせたくないと思うのは親としては当然の心情だろう。そのことは茉里奈にも理解出来ていた。しかし、それで自分の無知を肯定する気には到底なれなかった。
茉里奈はパンフレットを鞄へ仕舞うと塾の出口に向かった。エアコンの効いていた屋内から一歩外へ出ると、纏わりつく様な暑さが広がっていた。時刻は午後六時を過ぎていたが、日はまだ沈んでおらず、西日が眩しかった。そんな夏の暑さの中を歩いていると、今日の講義でノートを使い切っていたことを思い出した。茉里奈は塾から最寄りにある駅前の百貨店に向かうと、文房具も販売している書店へと入った。勉強漬けの毎日はストレスが溜まるが、そのために使う色とりどりの文房具を眺めているのは不思議と苦にならなかった。むしろウキウキしてさえいる。茉里奈は今使っているのと色違いのノートを二冊買うとレジに向かった。すると、隣のレジに見知った顔を見つけた。
クラスメイトの天音千絵だ。彼女も茉里奈に気付いた様でこちらに小さく手を振って来た。
「どうしたの、こんなところで?」会計を終えた茉里奈は千絵の傍まで行って尋ねた。
「ううん、別に。ただ、ちょっと気分転換がてら参考書を買いにね」千絵は手に持った紙袋を見せるとそう答えた。
「参考書? 何の?」
「数学……。最近、ちょっとやばくって」
「へえ」
千絵は去年より成績を落としてはいるが、それでも勉強はきちんとやっているようだった。友人として心配していただけに、今の話を聞いて茉里奈は少しほっとした。
「ねえ、千絵。もしよかったら、ちょっとだけお茶してかない?」
「え、珍しいね。茉里奈がそんなこと言うなんて」千絵が目を丸くしてそう言った。
「そう?」
「そうだよ」
確かに千絵の言うとおり、茉里奈からこんなことを提案するのは珍しいことだった。高校に進学してから茉里奈の行動範囲は学校、塾、自宅にほぼ限られていた。だから、寄り道などほとんどしたことがなかった。
茉里奈は自分がそれほど頭の出来が良くないことを自覚していたので、その分、人より多く努力しなくてはと思っていた。そのせいで周りに目を向ける余裕さえ失っていた。
だからこれはいい機会だと茉里奈は思った。今の自分は視野狭窄になっている。なら、第三者に意見を聞いてみるのもありかもしれない。
茉里奈は千絵と一緒に百貨店内にあるチェーンのカフェテリアに入った。千絵が席を確保してくれることになったので、代わりに茉里奈が注文をするためレジに向かった。フラペチーノを二人分注文し、待つこと少々。商品はすぐに用意され、茉里奈はそれを持って千絵の待っている席へと向かった。
そのとき千絵は誰かと携帯電話で話をしていた。だが、千絵はすぐに電話を終わらせると、戻って来た茉里奈に小さく手を振った。
「お待たせ。はい、これ千絵の分」
「あ、うん」
茉里奈は千絵にフラペチーノの入ったカップを渡すと、じっと彼女の顔を見つめた。
「なに?」茉里奈の視線に気付いた千絵が尋ねる。
「え?」
「いや、なんかじっとこっち見てるから」
「あー、ごめん。さっき電話してるとき千絵、なんか怖い顔してたから気になって……」
茉里奈に指摘された千絵はばつが悪そうに肩を竦めた。
「別に大したことじゃないよ。ただ、ちょっとバイトのシフトが急に変更になっちゃってね……」
「へえ、そういうことってよくあるの?」
「まあ、たまにね。でも、仕方ないの。それも覚悟で始めた仕事だから」
「すごいね、千絵は……」茉里奈は無意識に言っていた。
「え?」
「あ、いや。ただ、なんとなく。私、働いたことってないからそう思って……」
「全然、そんなことないよ」
千絵は苦笑を浮かべるとフラペチーノのクリームをスプーンで掬って口に運んだ。すると、見る見る彼女の顔が明るくなった。
「うわー、これおいしい! 注文して大正解」
「本当?」
茉里奈も千絵にならってクリームを口に入れる。確かにおいしい。外が暑かったせいで冷たいクリームの存在感が余計に際立つ。茉里奈は容器の半分くらいまでフラペチーノを食べると再び口を開いた。
「ねえ、千絵。ちょっと、聞いてもいい?」
「なに?」
「たとえばの話なんだけど、もし、何らかの事情で自分の夢を諦めなくちゃならないとしたら、千絵ならどうする?」
「唐突ね。どうしたの。突然、そんな話をして?」
探るような千絵の視線。もしくは茉里奈の質問の真意を量りかねているようにも見える。
「特に理由はないんだけどね」平静な口調で茉里奈は答える。「もしもの話よ、もしもの」
「うーん、そうねえ。私には特別夢ってものが無いから上手く答えられないけど、ただ……」
「ただ?」
茉里奈が尋ねると、千絵は何かを思い出すように目線を上に向ける。
「百合って、ずっと入院をしてたじゃない?」
「え? う、うん」
急に話が変わって茉里奈は若干の戸惑いの色を浮かべる。
「そのせいで学校に通えない時期が続いて……。でも、病院の看護師さんたちが百合にとても良くしてくれてね。その影響であの子、将来は看護師になりたいって言い出すようになったの」
「百合ちゃんが、看護師?」茉里奈は看護師姿の百合を思い浮かべる。「何か、似合いそうね」
「でしょ。私もそう思うの」千絵は嬉しそうに答える。「あの子、見た目はふわふわしてるけど中身は私なんかよりずっとしっかりしてるから」
「だね。毎日、ダメな姉を起こしてるわけだし」
「うるさい」茶化す茉里奈を千絵が軽く睨む。
「ごめんごめん」
「ただ、その話を聞いたとき、私には百合が看護師として働く姿がどうしても想像できなかった」
茉里奈は以前に一度だけ千絵と一緒に百合の見舞について行ったことがあった。その時の百合は今よりずっと儚げで触れれば壊れてしまいそうな印象だった。
そんな以前の百合を知っていれば、今のように元気な姿は想像できないだろう。茉里奈は黙って頷くと千絵の続きを話し出すのを待った。
「それはもしかしたら百合自身も同じだったのかもしれない。でも、あの子は諦めなかった。そのために危険な手術を受けることも決めた。もっとも、あの時の百合にとって看護師になるって夢は目の前の手術を乗り越えるためのモチベーションにもなっていたみたいだったから、私もその夢を応援することにしたわけで、絶対にあの子に看護師になって欲しいって訳じゃなかったんだけど……」千絵は一呼吸着くとストローでフラペチーノを啜る。「でも、あの子は今も変わらずに看護師を目指している。だから、私も今は本気で応援したいと思ってる」
「そう……」
茉里奈が短くそう答えると、千絵も小さく頷く。
「茉里奈の質問に対して私ははっきりとした答えを返すことが出来ない。さっきも言ったけど、私は今まで明確な夢や目標ってものを持ったことがなかったから。けど、もし百合が自分の夢を諦めようとしていたら、一度きちんと考えるように説得すると思う」
「たとえばそれで千絵に迷惑が掛かるかもしれないとしても?」
「当然よ」千絵ははっきりとそう答えた。「やっぱり大切な人には幸せになって欲しいって思うから」
「そっか。そうだよね……」
自分の持っていたものとは別の視点からの答えを聞いて茉里奈は考える。
もしかしたら、自分の家族も同じような気持ちを持っているのかもしれない。
「ごめん。あんまり参考にならなかったと思うけど……」心配そうに千絵が言う。
「ううん。そんなことないよ。聞いてみて良かった。ありがとう」
「そ、そう? ならよかったけど……」
茉里奈の返事に千絵ははにかんだ笑顔を浮かべた。




