第2話 王都の水は嘘をつく
視立て屋の開店は、盛大に無視された。
〈錆びた竜亭〉の軒先を借りて、看板を出したのが十日前。『皮膚、視ます。呪いか病気か、本当のことを言います。銅貨一枚』。ドゥンカンは「まあ、酒のつまみにはなるだろ」と場所代を取らなかった。代わりに俺は毎晩、常連どもの湿り足だの汗まけだのを視る羽目になっている。湿り足――足の指の股がジュクジュクに爛れる、下町の万年病だ。原因は千年誰も知らない。銅貨一枚も、大抵は麦酒一杯に化ける。
客が来ない理由は、分かっている。
「呪いってのは教会の縄張りだ。銅貨一枚で領地を荒らす奴は嫌われる」
「大聖堂で王女殿下を救った英雄ですのに」
隣で頬を膨らませているのは、フード付きローブ姿のミレイユだ。
王女の助手入りは、想像通り王宮で大揉めに揉めた。結果、国王が捻り出した折衷案が「週の三日、行儀見習いの一環として市井を学ぶ」という無理筋の公務である。護衛は「目立たぬよう」遠巻きに二人。中身が王女だとバレたら暴動になるので、下町では「薬師見習いのミレイ」ということになっている。なってはいるが、所作の優雅さが完全に貴族なので、たぶん半分バレている。パン屋のかみさんは彼女に釣り銭を渡す時だけ両手で捧げ持つ。
「王家の触れ書きは『王女に呪いなし、浄化は中止』までだ。守護紋や王妃の話は伏せられてる。おまけに教会は『特別な王女だから助かった』と触れ回ってる。……まあ、気長にやるさ」
気長にやった結果が、本日の売上、銅貨二枚である。内訳:ドゥンカンの湿り足(経過観察)、常連の婆さんの日向ぼっこ火照り(病気ではない)。
世界を救った男の第二の人生は、こうして猛烈に地味に始まった。
◇
転機は、冒険者ギルドから来た。
王都グランヴェールの冒険者ギルドは、下町と環市区の境に建つ、元・穀物倉庫のばかでかい石造りだ。朝から喧噪の坩堝で、依頼板には羊皮紙がびっしり貼られている。『下水道の大鼠討伐・銀貨三枚』『薬草〈月白草〉採取・東の森』『飛竜の目撃情報求ム』。魔王は死んだが、世界から牙が消えたわけじゃない。
冒険者はFからSまでの位階で管理され、位階が上がるほど実入りのいい依頼を受けられる。で、その割り振りをカウンターで仕切るのが、受付嬢だ。つまり受付嬢とは、Bランク以下の冒険者にとって生殺与奪の女神である。依頼の割り振り的な意味で。
その女神――看板受付嬢のリタが、その日、カウンター越しに手招きしてきた。
「これ、その……『視立て』? っていうの、私にもしてもらえます? ほら、大聖堂で王女さまを救ったっていう、あの」
「……守護紋のことまで、どこで聞いた。触れ書きには出てないはずだが」
「レイジさん。冒険者ギルドの受付を舐めないでください。あの日、内陣に居合わせた貴族の従者が三人、うちの登録冒険者です」
情報の女神でもあった。
リタは周囲を気にしながら、カウンターの下でそっと両手を開いた。
「最近、手のひらがザラザラするんです。それに――」
襟元を少しずらす。鎖骨の下の肌に、雨粒を散らしたような、細かいまだら模様が広がっていた。
「教会に行ったら『軽い呪いですね』って、護符を三枚買わされました。銀貨六枚。でも全然治らなくて。……そしたら昨日、司祭さまが何て言ったと思います? 『信心が足りないので、もう三枚』って」
「知ってるよ、その台詞。うちの二軒隣も言われた」
俺は懐から白銀の筒を取り出した。神代文字が、ゆっくりと灯り始める。
「視せてくれ。……少し、冷たいぞ」
◇
紫紺のレンズ越しに、リタの手のひらが広がった。
偏光環、一段。
――呪いの根は、ない。
それは断言できる。鉤爪の形をした醜い根は、どこにもない。教会の「軽い呪い」は、いつも通りの出鱈目だ。
だが。
「……なんだ、これ」
手のひらに、小さな角質の粒が規則正しく点々と盛り上がっている。まるで――そう、砂粒を皮膚の下に一列に埋め込んだような。
鎖骨の下のまだら模様は、もっと奇妙だった。色が抜けた部分と濃くなった部分が、雨垂れの跡みたいに混ざり合っている。
呪いじゃない。虫でもない。傷でもない。かぶれとも違う。
……分からない。
世界を救った伝説の神器で視ても、これが何なのか、俺には分からないのだ。
「レイジさん……? 私、大丈夫、ですよね……?」
不安げなリタの顔。ここで「分からん」と言って帰すのは簡単だ。だが、それは教会の「呪いですね」と同じ逃げだ。分からないものに適当な名前を貼って、考えるのをやめる――俺が看板を出したのは、その千年の手抜きと逆のことをするためだろう。
「――呪いじゃない。それは保証する。だが、正体はまだ分からない。三日くれ。必ず突き止める」
「え?」
「視立てってのはな、視て終わりじゃない。分かるまでが視立てだ」
筒尻の空の台座が、ほんの少しだけ温かくなった。答えを出していないのに、何へ反応したのかは分からなかった。
リタは安心しなかった。
呪いではないと聞けば皆、肩の力を抜く。そう思い込んでいた俺の方が、勝手だった。
「三日で、もっと広がりませんか」
「その可能性は分からない。痛みや熱が出たら、三日を待たず呼んでくれ」
「仕事を外されませんか」
そっちか、と俺は思った。
リタの商売道具は、顔と声と、羊皮紙を一日百枚めくる手だ。掌のざらつきで依頼票を二枚一緒に取ってしまい、昨日は討伐依頼と薬草採取を逆の冒険者へ渡しかけたという。襟から覗くまだら模様を見た同僚には、もう「教会へ休みを申し出た方が」と遠回しに言われていた。
「私がカウンターを外れたら、次の担当は、新人を顔で選ぶ副長です。死人が出ます。主に新人に」
「切実だな」
「笑い事ではありません」
ミレイユが帳面を開いた。
「では、リタ様の暮らしを最初から伺います。食事、寝具、化粧、洗い物、お仕事で触れる品――」
「さ、様はやめてください。受付嬢に様をつける薬師見習いはいません」
「リタ、さ……ん」
王女が人生で初めて口にする「さん」だったらしい。発音が妙に荘厳だった。
問診は二刻かかった。
新しい石鹸は使っていない。羊皮紙も墨も全受付で同じ。食堂の飯も同じ。寝具は三年もの。薬草棚へ触れるのは週に一度。俺たちは一つずつ、怪しいものを帳面へ並べた。
その日の夕方、同じカウンターで働く受付を六人視た。
二人は何もない。三人は指先にインク染み。最後の一人、会計係の青年の掌にだけ、リタと同じ小さな粒があった。
「俺も呪われてるんですか」
「まだ、その言葉で考えるな。リタと共通するものを探す」
二人の共通点は仕事ではなかった。住まいが、同じ下町東区だった。
原因が職場にあるという最初の考えは、その日のうちに捨てることになった。
間違った仮説を帳面から消そうとしたミレイユの手を、俺は止めた。
「消すな。外れた考えも残す」
「間違いを、ですか?」
「次の奴が同じ間違いを一日かけてやらずに済む」
ミレイユは少し考え、炭の線で『職場の接触物――可能性低し』と囲った。
視立て屋に、最初の失敗記録ができた。
◇
ここから先は、神器の出番じゃない。足と、頭の出番だ。
まず俺は、記憶を浚った。あの「砂粒の掌」に似たものを、旅のどこかで視た――いや、見たことがなかったか?
……あった。
二年目の春。ミスリル鉱山の街ドヴェルグ。岩山を刳り貫いた坑道の街で、俺たちは補給のため十日ほど逗留した。精錬所の炉前で働く年寄りたちと酒を酌み交わした夜、彼らの掌が妙にザラついていたのを覚えている。爺さんたちは笑ってこう言ったのだ。
『こいつは鉱山紋よ。長く炉の煙を吸った男の勲章さ』
『これが出た奴ぁ、十年後にゃ肺と腹をやられて逝く。まあ、鉱夫の定めよ』
勲章と定め。あの街でも、誰も「なぜ」を問うていなかった。
「ミレイユ。薬草学の本に、『毒銀』って記述はあるか」
「毒銀……ええと、確か——精錬の際に出る『銀に似て銀にあらざる毒』。古い錬金術書では〈竜の涎〉とも。少量では気づかず、年単位で体に溜まり、肌に模様を刻み、やがて内側を蝕む、と」
「肌に、模様を刻む」
背筋に冷たいものが走った。鉱山紋。あれは勲章なんかじゃなかったのだ。
裏付けが欲しかった。鉱毒の症例記録なら、王都で一番持っているのは宮廷医務院の書庫だ。俺は駄目元で、聖王区の医務院を訪ねた。
応対に出たガイストは、俺の顔を見るなり、書庫の扉の前に立ち塞がった。
「――帰れ、山師」
「山師?」
「大聖堂の一件、貴様は運が良かっただけじゃ。レンズを覗いて講釈を垂れる、その手口は市場の水晶占いと変わらん。医術とは、千年の先人の積み重ねの上に立つもの。貴様のやっとることは、その千年への唾吐きよ。……医務院の書は、医術を修めた者のためにある。似非者に見せる頁は一枚もないわ」
「あんたの言う千年は、王女の痣を視もせずに焼こうとしたがな」
ガイストの白髭が、怒りで震えた。
「出ていけ! 二度と聖王区の敷居を跨ぐな!」
……交渉決裂、というやつだった。ミレイユは「わたくしから王家の名で命じることも」と息巻いたが、断った。権力で開けさせた書庫に、ろくな学びはない。
「いいさ。書庫が駄目なら、生き字引に聞く」
下町には下町の知恵袋がいる。〈錆びた竜亭〉の裏路地に住む老薬師ヨンナ――ミレイユが最近弟子入り(王女が、薬草婆に、弟子入りである)した婆さんだ。ヨンナは俺の話を聞くと、歯のない口でカラカラ笑った。
「毒銀かい。ドヴェルグ帰りの鉱夫を、あたしゃ五人看取ったよ。医務院サマは呪いだと言ったがね。ありゃ毒だ。薬師なら誰でも知ってる。――で、あんたの知りたいことは一つだろ。あの毒は、どこから体に入るか」
「ああ」
「炉の煙。傷口。それと――水さ。〈竜の涎〉は、水に溶ける」
水。
俺とミレイユは、顔を見合わせた。
王都の水は、北の霊峰イスヴェルから、三十里の水路橋で引かれている。建国王の大事業、王都の自慢、二十万の民の命綱。水は聖王区の大水盤から各区の給水場へ分けられ、下町の連中は毎朝、桶を担いで水汲みに並ぶ。水番組合が水路を守り、水盗人は縛り首。それくらい、水はこの街の急所だ。
その水が、毒を運んでいるとしたら?
「……ミレイユ。こいつは、でかいぞ」
◇
翌日から、俺たちは王都中を歩き回った。
下町の井戸端、洗濯場、酒場、パン屋。「手のひら、視せてくれ。銅貨は要らん」と言って回る不審者と化した俺は、二度ほど衛兵に連行されかけ、二度ともミレイユが「よ、よいのです! その者はわたくしの連れです!」と貴族すぎる発声で助けてくれた。絶対に半分バレている。
三日目には、リタが手を回してくれた。ギルドの掲示板に『視立て屋の調べに協力した者、手間賃銅貨五枚(ギルド持ち)』の張り紙が出たのだ。
「いいんですか、ギルドの金庫を勝手に」
「受付嬢の裁量です。それに――」リタは自分の掌を見た。「私と同じ模様の人、水汲み場で三人見ました。これ、私だけじゃないんですよね?」
女神は、話が早かった。
約束の三日目、俺はリタをもう一度視た。
粒の数に大きな変化はない。熱も痛みもない。だが、まだ正体を言い切れるだけの証拠は揃っていなかった。
「三日くれと言った。約束を破った」
「途中経過を話してください」
「鉱山で見た毒の印に似てる。住まいに偏りがある。水を疑ってる。ただし、まだ疑いだ」
リタは自分の掌と、調査中の地図を見比べた。
「では、あと二日。私が患者だから、私が決めます。その代わり、隠さないでください。悪いことも」
患者に待ってもらうのではない。何が分かり、何が分からないかを伝えた上で、待つかどうかを選んでもらう。
俺はそのやり方を、最初の患者に教えられた。
協力者は膨れ上がり、五日目の夜、宿の床に広げた王都の地図の上で――模様が、浮かび上がった。
同じ症状の住人、十七人。その住まいに、俺は炭で印をつけていった。
下町の東側に、印が固まっている。環市区にも数人。聖王区には、ゼロ。
そして十七個の印は、綺麗に一本の線に沿って並んでいた。
ただ、印のない人間も調べた。
同じ第三区で暮らし、同じ水汲み場へ並ぶのに、掌が滑らかな者が十一人いた。最初は調べの邪魔に思えたが、ミレイユは印のない十一人だけを別の紙へ書き出した。
「この方々にも、共通点があるはずです。毒が水なら、同じ区の全員へ出ないのはなぜでしょう」
聞き直すと、四人は最近越してきた者だった。症状のある者は全員、少なくとも三年以上住んでいる。二人は酒造りの家で、酒の味が変わるのを嫌い、西区の深井戸水を買って飲んでいた。残る五人は、西区の親類宅で昼を過ごし、水をほとんど持ち帰らない。
長く、繰り返し、口から入る。
逆に第三区の給水場で働く水汲み人足は、住まいが西区でも掌に粒があった。仕事中、何度も柄杓から直接水を飲むという。
地図の線に、時間と飲み方が重なった。
「症状のある人だけを集めたら、水路のせいにしたい俺たちの都合で、何だって線にできた」
「症状のない方が、仮説の壁になってくださったのですね」
「壁を越えられた考えだけ、次へ持っていく」
ミレイユは地図の余白に、印のない十一人の名も小さく書き入れた。
「……第三水路区。五年前に新設された、新水道の給水区だ」
ミレイユが古い区割り図と突き合わせる。「本来の水路橋はここで大きく岩山を迂回しています。ですが五年前、『近道』として旧ミスリル廃坑の脇を通る新ルートが……工事の認可は、水道組合」
「毒銀は、水に溶ける。廃坑は、毒銀の巣だ」
俺は立ち上がり、剣帯を締めた。神器だけじゃなく、剣も持つ。行き先が行き先だからだ。
「ミレイユ、明日の朝一でヨンナ婆さんのところへ走ってくれ。『毒銀の毒消しと、含硫薬草の在庫を洗っておけ』と。それとリタに伝言だ。ギルドの鑑定部に、水の検分を頼みたい」
「鑑定部、ですか?」
「冒険者が持ち込む戦利品の真贋を見極める連中だ。鑑定眼持ちの練達が三人いる。奴らの鑑定書は、王家の紋章の次に偽造が難しいと言われてる。……教会も医務院も敵に回ってる以上、こっちの証は、誰にも文句のつけようがない形にしておく」
「……レイジ様、時々ものすごく喧嘩慣れした発言をなさいますよね」
「三年間、値切る商人と偽物摑ませる武器屋と戦ってきたからな。……で、俺は廃坑に潜る。――久しぶりの、冒険だ」
その前に、新水道そのものから水を採ろうとした。
第三分水門は、環市区の北壁へ食い込む石の砦だった。水番組合の印をつけた番人が六人、俺たちを見るなり門扉の前へ並んだ。
「水へ異物を入れられては困る。採水は組合員のみだ」
「入れない。瓶へ汲むだけだ」
「組合長の許可状は」
「組合長を調べるための水に、組合長の許可を貰えと?」
話は堂々巡りになった。
そこへ、門の内側から空の水瓶が一つ転がってきた。拾うふりをして蓋を開けると、底に水が残っている。瓶の首には、炭で小さく『雨の翌朝』と書かれていた。
顔を上げても、番人は全員こちらを見ないふりをしていた。
組合の中にも、水の匂いがおかしいと気づいている者がいる。だが職を失うのが怖くて、名を出せない。
「証言は使わない。水だけ借りる」
誰にともなく言うと、門の一番若い番人の肩が、ほんの少し下がった。
鑑定部へ持ち込んだその水からも、薄い毒銀が出た。下流の給水場だけではない。汚染は分水門へ入る前に起きている。
廃坑へ潜る理由が、また一つ増えた。
◇
旧ミスリル廃坑は、王都の北西、岩山の腹に口を開けていた。
立入禁止の札。錆びた柵。そして柵の奥から漂う、饐えた水の匂い。二十年前に掘り尽くされて封鎖された、と公式にはなっている。
ランタンを掲げて坑道を下りていくと、すぐに「先客」のお出迎えがあった。
――ヴォオオオ……。
闇の中から湧き出したのは、泥色のスライムの群れ。廃坑の毒水を啜って肥え太った、毒沼種だ。並の冒険者なら装備を溶かされて泣いて帰る相手。討伐位階で言えばC、群れならBの上。
俺は剣を抜き――その前に、レンズを覗いた。
スライムの表皮。粘膜の流動。毒を含んで濁った部分と、澄んで薄い部分。
……視える。奴の「肌」にも、全部書いてある。
「核の周りだけ、膜が薄い。毒で自分の体も焼けてるんだな、お前」
一歩、踏み込む。三年間魔王を追い続けた剣速は、まだ錆びちゃいない。膜の薄い一点、その奥の核だけを、最小の太刀筋で貫く。一匹、二匹、三匹――群れが崩れるまで、十秒かからなかった。
「無双って言うな、視立てって言え。……いや、今のはただの無双か」
誰にともなく言い訳しつつ、坑道をさらに下る。
下るほどに、壁の様子が変わっていった。岩肌に白い染みが増える。坑木が妙な枯れ方をしている。そして最深部で、俺はそれを見つけた。
崩れた隔壁。その亀裂から、坑道に溜まった鈍色の水が、こんこんと湧き出す新水道の導水管へと流れ込んでいる。
――いや、それだけじゃない。
水たまりの中央に、光が揺れていた。
淡い、青白い、少女の形をした光。水の精霊だ。霊峰の水脈に棲まい、清い水と共にしか在れないという、水番組合の守り神。組合の紋章にも彫られている。その守り神が、なぜこんな毒水の底に。
精霊は俺を認めると、水面を震わせて、悲鳴のような澄んだ音を立てた。敵意――いや、違う。
よく視ろ。俺は、レンズを構えた。
精霊の体――水の表面張力が作る、薄い薄い「肌」。そこに、毒銀の粒子がびっしりと突き刺さり、青白い体を鈍色に汚していた。皮膚のない精霊の、それでも精一杯の「肌」が、悲鳴を上げていた。
「……お前も、患いびとだったのか」
レンズ越しに視てやると、精霊は動きを止めた。視られている、と分かるのだろうか。やがて彼女はすうっと水面を滑り、隔壁の亀裂を――正確には、亀裂の縁を指し示した。
亀裂の断面には、鑿の痕が残っていた。
崩れたんじゃない。壊されたんだ。
「五年前の水路変更。岩山を迂回すれば三十里、廃坑脇を抜ければ二十二里。近道すれば工費が浮く。邪魔な隔壁は、事故に見せかけて……」
人災。それも、確信犯の。
精霊は最後に、坑道のさらに奥の闇を振り返り、怯えるように震えてから、水脈の奥へと消えた。
……あの怯え方は、毒銀に対するものじゃなかった。もっと奥に、何かいる。
その時の俺は、先を急ぐあまり、それを深く考えなかった。
――後になって、何度も悔やむことになる。
◇
三日後。ギルドの大広間は、立錐の余地もなかった。
リタが「公開の視立てにしましょう。密室だと、揉み消されます」と言ったのだ。受付嬢は、王都の力学というものを熟知していた。
俺は水道組合の理事長サルドー(でっぷり太った、指輪だらけの男)の前に、三枚の紙を叩きつけた。
「一枚目、同じ症状の十七人の住まいの分布図。全員が第三水路区だ。二枚目、廃坑の水と水道の水の調べ書き。ギルド鑑定部、バッソ老の鑑定書付きだ。どっちの水からも同じ毒銀が出た。三枚目――五年前の水路変更工事の帳簿の写し。隔壁の撤去費用が『落石事故処理費』として計上されてる。壊したのはあんただ」
「な……っ、で、出鱈目だ! 呪いだ! 第三区の呪いは教会も認めて――」
「ああ、そうだな。教会はこのひと月、第三区でよく護符が売れたそうだ。銀貨六枚の護符がな」俺は群衆を見渡した。「第三区の連中、手ぇ挙げてくれ。護符、買った奴」
十を超える手が、上がった。ざわめきが怒気に変わっていく。
「呪いなら祈れば済む。だがこれは人の仕事だ。――人の仕事は、人が調べれば、必ず尻尾が出る」
ギルド中が静まり返った。リタが、自分の手のひらを見つめている。
「あんたが浮かせた工費は金貨三百枚。リタの手に刻まれた模様は、五年分。……なあ、理事長。人の肌ってのはな、帳簿より正直なんだよ」
サルドーは衛兵に引っ立てられていった。水路は旧ルートに戻され、ヨンナ婆さん監修の毒消しの薬草が第三区に無償で配られることになった。費用は理事長の資産から出る。当然だ。
ついでに教会は、第三区で売った護符の代金を「女神の思し召しにより」全額返金する羽目になった。群衆の前で俺が「返さないなら、護符の効き目も公開の視立てにかけるか?」と聞いたら、司祭は五秒で頷いた。
「レイジさん! あの、これ……!」
帰り際、リタが押しつけてきたのは、ギルドの正式な依頼書だった。
『常設依頼:視立て屋〈スキン・オラクル〉への協力要請。ランク:S』
「ギルドマスターが、勝手にSランクにしろって。……ふふ、これでもう、教会も文句言えませんね!」
Sランク視立て屋。字面がもう滅茶苦茶だが、悪い気はしなかった。
なお、その夜の〈錆びた竜亭〉は、第三区の連中の返金祝いで明け方まで大騒ぎだった。ドゥンカンは「視立て屋の看板料、今日から麦酒二杯な」と値上げを宣言した。繁盛の気配だけは、ある。
◇
ただし、勝ちっ放しでは終わらなかった。
翌日、視立て屋に一通の書状が届いた。差出人、宮廷医務院筆頭ガイスト。宛名、「自称・視立て屋」。中身は、格調高い文語で綴られた弾劾だった。曰く――『貴殿の行いは医術に非ず、民を惑わす辻芸なり。ギルドの位階を笠に着る所業、笑止。医務院は貴殿の「視立て」なるものを、断じて認めぬ』。
「まあ! なんて頑固な」ミレイユが憤慨した。「水道の一件、あの方の千年の医書は何か一つでも言い当てまして!?」
「いや、何も。……だがな、ミレイユ。この弾劾状、隅々まで読んでみろ」
弾劾の癖に、妙なのだ。文中に三箇所、こちらの調べの「穴」の指摘があった。毒銀は煮沸で減るのか、それとも濃くなるのか。症状のない子供にも内側の害はないのか。旧水路へ戻した後、水の値が本当に下がったか――どれも、痛いところだった。どれも、俺が次にやらなければならないことだった。
「弾劾状の皮を被った、『検め返し』だよ、こいつは」
「検め返し?」
「一人が出した視立てを、別の目でもう一度検めて、見落とした穴を返す。今、そう名づけた。……千年の学問ってのは、伊達じゃないらしい」
敵ながら、と言うべきか。敵だからこそ、と言うべきか。あの爺さんの目は、確かに俺の仕事を「視て」いる。
――いつか、あの書庫の扉が中から開く日が来る気がした。まだ当分、先だろうが。
◇
深夜、視立て屋(という名の宿の物置)に、ギルド鑑定部のバッソ老がやって来た。齢六十、元Aランク冒険者の隻眼の鑑定士は、硝子瓶を一つ、卓に置いた。
「廃坑の水の、追加の検分だ。毒銀は出た。鑑定書の通りだ。……だがな、視立て屋。儂の鑑定眼が、もう一つ、妙なものを拾った」
硝子瓶の底に、黒い糸くずのようなものが沈んでいた。
「鑑定眼は『名前』を返す術だ。剣なら銘を、薬なら効能を返す。だがこいつにかけたら――何も返ってこなかった。四十年鑑定をやってきて、初めてだ。この世のものの名簿に、載っておらん」
レンズで視た瞬間、心臓が跳ねた。
鉤爪の形。
呪いの根の――千切れた、先端。
魔王は死んだ。呪いの湧き元は絶たれたはずだ。なのに、なぜ王都の地下水から、こんなに「若い」根が出る。
精霊が怯えていた、坑道の奥の闇を思い出す。
王妃の守護紋が、十九年間防ぎ続けてきた「何か」。
――それは、王都の地下で、まだ生きている。
「バッソさん。この瓶、しばらく預かる。……それと、この件は当分、ここだけの話にしてくれ」
「ふん。名無しの気味悪いモンの話なぞ、酒の席でもしたくないわい」
隻眼の鑑定士は、そう言って夜の下町に消えた。
俺は瓶の底の黒い鉤爪を、もう一度レンズで視た。
視立ての相手が、また一段、深くなった気がした。
(第2話・了)
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*次回予告:第3話「夜だけ来る悪魔」――孤児院の子供たちの肌を、夜な夜な這い回る「見えない悪魔」。教会は院ごと焼くと言い出した。だがその正体は、レンズの中で小さな翼を広げていた。*
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### 今回の疾患メモ
**慢性ヒ素中毒**:ヒ素に汚染された飲料水などを長年摂取することで起こる。皮膚には手のひら・足の裏の点状のかたい盛り上がり(角化)や、体幹の「雨滴様」と呼ばれるまだらな色素沈着が現れる。皮膚症状が汚染に気づく最初の手がかりになることが多く、井戸水汚染による集団発生が世界各地で報告されている。
※本作はフィクションです。実際の症状は皮膚科専門医にご相談ください。




