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第1話 毛穴一つで王女を救う

「――さあ勇者レイジよ! 世界を救いし功績に報い、望みの神器を授けましょう!」


女神アルテナの声が、光に満ちた天上の祭壇に響き渡った。


神器授与の儀。功績を挙げた人間が女神に招かれ、望みの神器を授かる、建国以来の栄誉である。歴史上、ここに立てた人間は十七人。授かった神器はどれも国宝となり、歴史を変えた。二百年前の英雄が授かった「不凍の錨」は北海航路を拓き、百年前の賢者が授かった「翻訳の耳飾り」は五つの戦争を交渉で終わらせた。


つまり、この台座の上の選択は、俺個人の褒美というより、次の百年の歴史を決める選択なのだった。


目の前に、三つの台座が浮かんでいる。


一つ目、聖剣。振れば山を割るという。


二つ目、賢者の石。あらゆる魔法を極めるという。


三つ目、なんかレンズのついた小さい筒。


俺は魔王戦の傷も癒えぬまま、葬式を一つ終えたばかりだった。まぶたの裏に砂が詰まっているようだった。三日三晩の魔王戦、その後の埋葬、その後の事後処理。天上に招かれた時も、正直、半分寝ていた。


だから、だ。


だから俺は、ふらついた拍子に、三つ目の台座に手をついた。


「――契約成立ゥゥゥ!!」


「は?」


「おめでとうございます! 選ばれたのは『伝説のダーモスコピー』でした!」


「待って」


「待ちません」


「今のノーカンだろ! 手をついただけ――」


「神器契約に取り消し規定はございません。当祭壇の壁面にも掲示しております」


見ると、光の文字で『契約後の返品・交換はお受けできません』と書いてあった。天上の祭壇にクーリングオフはなかった。次の百年の歴史が、立ちくらみ一つで決まった。


「そもそもダーモスコピーって何だよ!?」


「皮膚を拡大して視る神器です!」


「皮膚を!? 世界救った報酬が!?」


女神はにこやかに、しかし目を合わせずに続けた。


「い、いやあ、それ、実は九百九十九年間、誰にも選ばれなかった神器でして……在庫が、こう、捌けてくれて女神的に大変助か――」


「在庫処分じゃねえか!!」


俺の絶叫は、光の祭壇に虚しく吸い込まれていった。


押しつけられたそれは、手のひらに収まる大きさの、白銀の筒だった。


長さは短剣の柄ほど。神銀(ミスリル)の胴には、蔦のような細かい神代文字がびっしりと彫り込まれている。太い方の端に、澄んだ紫紺のレンズが嵌まっていた。女神いわく「初代・医神メディカが自らの右目を磨って作った」らしい。神様は目を磨るな。


レンズの縁には細い環がついていて、これを回すと、レンズの奥で光の膜がくるりと角度を変える。「偏光環です」と女神は言った。「表面のてかりを消して、皮の下だけを視るための」。


そして筒尻には、小さな空の台座がある。


「そこは『祈りの座』です。使い手の想いを宿す場所――まあ、追々分かります」


追々って何だ。説明書はないのか。ないらしかった。九百九十九年前に失くしたそうだ。神器を在庫する才能はあっても管理する才能はないらしい。


ちなみに聖剣は翌週、討伐の功績を譲った仲間――「勇者」フィアナに授与された。式典は国を挙げて三日続き、王都の酒場という酒場が祝い酒を無料で振る舞った。


俺の授与式は誰も来なかった。女神すら途中で帰った。



――それから三ヶ月。


王都グランヴェール。人口二十万。大陸最大の城塞都市は、玉ねぎみたいな三重構造をしている。一番内側が王宮と大聖堂のある「聖王区」。真ん中が職人と商人の「環市区」。そして一番外側、城壁に背中を預けるようにひしめくのが、俺の住む「下町」だ。


下町の朝は、パンと煙と怒鳴り声の匂いがする。


「よう、レイジ! 今日も皮膚見てんのか!」


「酒場のオヤジの湿り(しめりあし)でも視てやれよ!」


行きつけの酒場〈錆びた竜亭〉の常連どもは、今日も今日とて元気だった。俺はここの二階に月銀貨二枚で間借りして、「ハズレ神器の元勇者」をやっている。


笑いたきゃ笑え。


だが……こいつは、笑われるような神器じゃない。


それに気づいたのは、授与から七日目の夜だった。酒場のオヤジ――ドゥンカンの手の甲を、何の気なしに覗いた時だ。


レンズに目を当てた瞬間、筒がかすかに熱を持ち、神代文字が内側から灯った。


視えたのは、肉眼では一色に見える肌が、無数の形と色の集まりだということだった。


皮の表面を走る細い溝。毛穴ごとに違う赤み。触れた薬草の粉。偏光環を一段回せば、てかりが消えて、その下の模様が浮かぶ。二段目は固くて、まだほとんど動かない。


こいつが教えてくれるのは、いま、そこにあるものだけだ。昨日も明日も、本人の心の内も視えない。視えた形から何が起きているかを考えるのは、俺の仕事だった。


レンズから目を離した時、思い出していたのは、三年の旅路だった。



魔王討伐の旅は、三年かかった。


出発した時、俺たちは五人だった。


剣士の俺、レイジ。聖女フィアナ。大魔導のオルド爺さん。斥候のシェラ。そして、盾使いのリュカ。


大陸の東端、日の昇る岬から出発して、七つの国を越えた。竜の巣の谷を抜け、腐り落ちた古王国の湿原を渡り、空が常に夜である「魔王領」に入ったのが、二年目の冬。


魔王領はひどい場所だった。土に呪いが染みている。草を踏めば呪われ、水を飲めば呪われ、息をするだけでも少しずつ呪われる。フィアナが毎晩、俺たち全員に浄化をかけ続けて、それでようやく人間の形を保って歩けた。


呪いってのは、生き物だ。あれを「悪い魔法」程度に思ってる王都の連中は、何も分かっちゃいない。あれは根を張る。獲物の肌に喰い込んで、鉤爪の形の根を張って、内側から啜るのだ。


――リュカが倒れたのは、魔王城まであと十日という野営の朝だった。


「ちょっと疲れただけだ」


あいつはそう言って笑った。首筋に、虫刺されみたいな小さな影があった。誰も気に留めなかった。フィアナの浄化は毎晩かかっていたし、熱もなかったからだ。


七日後、リュカは動かなくなった。


影は、鎧の下で背中一面に根を広げていた。浄化魔法は表面の呪いしか流せない。皮膚の下に潜り込んだ根には、届いていなかったのだ。


――もっと早く、誰かが「視て」いたら。


その「もし」を、俺は魔王の首と引き換えにしても、手放せないままでいる。



……なあ、リュカ。


俺がもし三年前にこの目を持っていたら。お前の首筋の、あの小さな影の「根」に、気づけていたのかな。



ここで一つ、この国の「治し」について言っておかなきゃならない。


この世界には回復魔法がある。傷はポーションで塞がる。金貨を積めば、千切れた腕だって繋がる。だから――誰も、原因を調べない。


治らない病気に出会った時、この国の医者が言うことは決まっている。「呪いですな」。それで全部終わりだ。呪いなら医者の仕事じゃない。教会の仕事。教会の仕事とはつまり、護符と、祈祷と、それでも駄目なら隔離か、浄化――聖火で焼くことだ。


下町で暮らして三ヶ月、俺はその「決まりごと」が回る様を、嫌というほど見た。


たとえば、うちの二軒隣のかみさん。赤ん坊の首のただれに、教会の護符を三枚買った。銀貨六枚。亭主の十日分の稼ぎだ。ただれは治らない。すると教会はこう言うのだ。「信心が足りませんな。もう三枚どうです」と。


たとえば、去年の夏に「三日熱」が流行った時。環市区の樽屋の親父が、熱が七日引かなかったというだけで「呪い持ち」の札を貼られ、浄化の儀の名簿に載った。親父は名簿から逃げて、いまも行方知れずだ。樽屋は潰れた。娘は下町に流れてきた。


治るものは魔法で治る。治らないものは呪いだから焼く。千年間、それで回ってきた世界。


「なぜ治らないのか」を考えた人間は、たぶん、ほとんどいない。


俺はその赤ん坊を視てやった。首のただれの下に、呪いの根なんかない。よだれかけの染料が擦れたところだけ赤くなっていた。よだれかけを替えたら三日で引いた。かみさんは俺を拝んだ。銅貨も受け取らなかったのに、翌朝、戸口に焼きたてのパンが置いてあった。


……こういうことが、この三ヶ月で、十と少し。


神器の使い道としては、地味なもんだ。だが、パンは温かかった。



その日、王城から下町まで、触れ書きが駆け抜けた。


『王女ミレイユ殿下の呪痕、ついに顔面に達す。宮廷筆頭医ガイスト卿、これを魔王の残呪と断定。三日後、大聖堂にて浄化の儀を執り行う』


浄化の儀。綺麗な言葉だが、意味はさっき言った通りだ。


〈錆びた竜亭〉は、その話で持ちきりだった。


「王女さまがなあ……気の毒に」


「生まれつき肩に痣があったんだろ? 教会が『胎の中で魔王の残り種に触れた証』だてんで、五つの歳から北の離宮に幽閉よ。乳母と侍女二人きりの暮らしだったとさ」


「陛下も、実の娘を焼くたぁな」


「しょうがねえさ。魔王の残呪が王家に巣食ってるなんて噂が広まってみろ、国が割れらあ。……王家ってのは、そういうもんだ」


誰も彼も、同情していた。そして誰も彼も、疑っていなかった。痣=呪い、という千年の等式を。


「……おい、ドゥンカン。王女の『痣』ってのは、どんなだ」


「ん? ああ、生まれつき肩にあったやつが、この十四年でじわじわ広がってるんだとよ。離宮じゃ、呪いを鎮める銀の布を肩から顔へ毎日巻かされてたそうだ。それでも、とうとう顔まで来ちまったって」


じわじわ、広がる。十四年かけて。


……引っかかった。


呪いは、そんな速さで広がらない。俺は三年間、呪いの土地を歩き、呪いに仲間を喰われた男だ。あれは根を張ったら、七日で人を殺す。十四年もかけて肩から顔へ「にじむ」ようなやつを、俺は一度も見たことがない。


じゃあ、あれは何だ。


分からない。視てないからだ。


――視てない、のに。


宮廷筆頭医サマは、どうやって「呪い」だと断定した?


気づけば俺は、立ち上がっていた。


「ドゥンカン、勘定」


「お、おう。どこ行くんだ」


「王女の痣ってやつを、視にな」


「……は? おいレイジ、まさかお前――おい! 相手は王家と教会だぞ!!」


酒場の喧噪が、背中で遠くなった。



王女を視る、と口にするのは簡単だった。


実際に王女の前まで辿り着くのは、魔王城へ入るより面倒だった。


初日、俺は聖王区の正門で追い返された。元勇者パーティーの留め金を見せても、門番は顔をしかめただけだった。


「勇者はフィアナ様であろう。貴様は、何だ」


「その横で三年、剣を振ってた男だよ」


「ならば剣を振る場所へ行け。ここは病人の見世物小屋ではない」


二日目は宮廷医務院へ行った。受付の若い医官に「痣の記録を見せてほしい」と頼むと、返事の代わりに消毒香を頭から振りかけられた。下町の呪いが移らないように、だそうだ。俺の方がよほど呪いを知っている、と言っても扉は開かなかった。


三日目、銀糸を扱う織物商を探した。


王女へ納める〈鎮め布〉を織った職人は、環市区の外れにいた。最初は王家との守秘契約を盾に口を閉ざしたが、俺が代金ではなく自分の腕を差し出すと、ようやく布の端切れを一片だけ見せた。


「斬る気かい、その腕を」


「巻くんだよ。王女と同じ時間だけ」


魔銀糸の布を左の前腕へ巻き、半日歩いた。夕方、布の縁に沿って、肌が赤く熱を持った。


レンズで視る。魔銀の細かな粉が、汗に溶け、毛穴の周りへ貼りついていた。王女の痣が同じだという証拠にはならない。だが、〈鎮める布は害を与えない〉という教会の前提には、一本、罅が入った。


職人は、赤くなった俺の腕を見て青ざめた。


「そんなはずはない。教会から渡された仕様どおりだ。魔銀を二割増せば、守りが強くなると」


「誰が二割増せと」


「大聖堂の、購買役だ。十年前からだよ。それ以前の布は、もっと銀が少なかった」


十四年分の異変のうち、後半ほど顔へ広がる速度が増した理由が、一つ見えた。


俺は端切れと、赤くなった自分の腕と、職人に書かせた納品年表を持って、もう一度聖王区へ行った。


それでも門は開かなかった。


だから、当日に入ることにした。


浄化の儀は公開の儀式だ。王女を救うための扉は閉じていても、王女が焼かれるところを見るための扉だけは、広く開いている。



浄化の儀、当日。大聖堂前の広場は、黒山の人で埋まっていた。


王家の醜聞であると同時に、王都最大の見世物でもある。聖王区の正門は朝から開放され、環市区の商人は屋台を出し、飴細工売りが「王女飴」なるものを売って衛兵にしばかれていた。人の不幸は、いつだって書き入れ時だ。


大聖堂の内陣には、選ばれた者だけが入れる。貴族席に居並ぶ絹と宝石。その最前列で身じろぎもしない国王グレゴール三世。祭壇の脇に控える白髪の宮廷筆頭医ガイスト――王都医術の頂点、その診立てに異を唱えられる者は、この国に存在しない。


そして祭壇の中央、純白の儀式装束で、聖火の前に座す王女ミレイユ。


顔の右半分を、黒い紋様が覆っていた。


司祭の朗々たる祈祷が始まる。『穢れし肉より魂を解き放ち、女神の御許へ――』要するに、焼きますという意味だ。千年かけて磨き上げられた、焼くための美辞麗句。


聖火が爆ぜた。


――今だ。


「――止まれ! 何者だ!」


内陣へ踏み込んだ俺を、衛兵の槍衾が囲んだ。どよめく貴族席。祈祷が止まる。


俺は堂々と名乗った。


「元勇者パーティー剣士、レイジ。……王女殿下の肌を、視に来た」


「視に……?」「あれが例の、ハズレ神器の」「魔王を斬ったってのは嘘だって話よ」――囁きが、さざ波のように走る。


祭壇の上で、ガイストが眉を吊り上げた。


「ハズレ神器の道化か! ここを何処と心得る! 殿下の呪いは、この宮廷筆頭医ガイストが断定したのだ!」


「十四年分の記録があるそうだな。見せてくれ」


「な……に?」


「あんたは触れた。広がる速さを測った。薬草も回復魔法も試した。だから十四年も浄化を延ばせたんだろ。……その記録を、最後に別の目で見せてくれ」


ガイストの顔が歪んだ。怒りだけではなかった。眠れない夜を十四年積み重ねた人間の顔だった。


「儂は殿下の肌を百二十七度検めた。薬草を十三種、回復術を四系統。魔力反応も毎月測った。何一つ、止められなんだ。記録ならここにある。じゃが、貴様に何が――」


「分からない。視てないからだ。だから視せてくれと言ってる」


十四年かけた仕事を踏みつけたいわけじゃない。その十四年が届かなかった先で、今から一人の女の子が焼かれようとしている。


「衛兵! つまみ出せ!」


その時だった。


「――待って」


鈴を振るような、しかし震える声。


祭壇の中央。白装束の少女が、顔の右半分を覆う黒い紋様ごと、まっすぐ俺を見ていた。


「……視て、くださるの? わたくしを。この痣を、『穢らわしい』ではなく――視て、くださるの?」


ああ、と思った。


この子はきっと、生まれてから一度も「視られた」ことがない。五つの歳から離宮に仕舞われて、遠巻きに囁かれ、憐れまれ――誰一人、その痣を正面から見ようとしなかったのだ。


「殿下! なりません、その者は――」


「ガイスト卿。どうせ三日後――いえ、もう今日でしたわね。焼かれる身です。……最後に一度くらい、この痣を、ちゃんと視ていただきとうございます」


静まり返る大聖堂を、俺は祭壇まで歩いた。一歩ごとに、貴族席の視線が背中に刺さった。


懐から、白銀の筒を取り出す。神代文字が、目覚めるように灯り始める。


聴衆の誰かが「あれがハズレ神器……」と囁いた。笑いたきゃ笑え。


「失礼します、殿下。……少し、冷たいですよ」


紫紺のレンズを、そっと痣に当てる。偏光環を、一段。


――視えろ。


世界が、拓けた。


まず視えたのは、痣の「縁」だ。この十四年で広がったという外側の領域。皮膚が赤く荒れ、細かく粉を吹いている。この荒れ方は……視たことがある。三年の旅の途中、鉱山の街ドヴェルグで視た、魔銀鉱を素手で掘る鉱夫たちの手だ。魔力を帯びた銀は、長く触れ続けると人の肌を焼く。


俺は自分の左腕の袖をまくった。半日前まで布を巻いていた場所に、薄い赤い線が残っている。


「これは同じ織元の端切れを、半日巻いた俺の腕です。殿下の肌と同じ場所に、同じ魔銀の粉が入っている。納品記録では十年前から銀糸が二割増えている。ガイスト、殿下の赤みが速くなったのは」


老医は帳面を繰った。指が、ある年で止まった。


「……同じ年じゃ。頬へ向かう速度が、それ以前の倍になっておる」


一つの所見だけで決めない。触れたもの、起きた時、広がった場所。三つが重なって、初めて原因の輪郭になる。


しかも赤みは気まぐれに広がっていない。右の肩から首を通り、頬へ。帯のように、ほぼ同じ幅で続いている。


「ガイスト。記録の最初の頁。赤みが広がり始めた日は」


老医は衛兵の手から帳面を奪うように受け取り、頁を繰った。


「……鎮め布の着用を始めて、十二日後」


「布を巻き直す位置は?」


「右肩で留め、首を巡らせ、右の頬を覆う。……まさか」


偏光環を、二段。表面が消える。


そして――痣の「中心」、生まれつきだという肩の紋様の下に、それはあった。


皮膚の最深部で無数に枝分かれした、精緻な――あまりに精緻な、銀色の脈。


呪いじゃない。断言できる。呪いの根は鉤爪の形をしている。リュカの背中で視たあれを、俺は一生忘れない。


だがこれは違う。これは――幾何学だ。祈りの形に編まれた、術式だ。


「……殿下。一つ伺います。〈鎮め布〉を外していた時間は、ありますか。湯浴みの間でも、眠る間でも」


「……いいえ。教会から、片時も外してはならないと。五つの歳から、一日も欠かさず」


「十四年、一日も。……肌に、休む暇を一度も与えられなかったわけだ。俺の腕は半日で赤くなった」


これで、輪が閉じた。


「そうですか。――なら、ここからは俺の仕事です」


俺は振り返り、大聖堂を埋める群衆を見渡した。


「視て、触れて、調べて、原因を突き止め、名をつける。……この国には、この仕事を呼ぶ言葉がまだない。だから俺が名付ける。――『視立て』だ」


ざわめく聴衆。「みたて……?」と誰かが繰り返す。構わず、俺は大聖堂中に届く声で言った。


「視立てを申し上げる。この十四年で広がった部分は、呪いではない。呪いを鎮めるために毎日巻かれた、魔銀糸の布による魔力かぶれです。赤みの形と布の当たる場所が同じで、着用十二日後から始まっている。銀糸を増やした年から悪化も速くなった。呪いの根は一本もない。布を外して軟膏を塗れば、ひと月ほどで引くはずです」


「……ならば」ガイストが、帳面を握りしめた。「元の痣はどう説明する。生まれつきの黒い紋様。儂らが恐れた、あれは」


「あれは呪いじゃない」


俺はもう一度、レンズ越しにあの銀の幾何学を視た。


術式の中心。最も深い場所に、小さな署名紋が編み込まれている。だが、レンズが教えてくれるのは形だけだ。それが誰の祈りかまでは書いていない。


「俺に分かるのは、これが人を喰う根じゃなく、外から来る根を押し返す形だってところまでだ。術式の名は、俺の領分じゃない。――ガイスト、この銀の流れを見てくれ」


祭壇脇の白い石板へ、レンズの中の銀の枝を炭で描き写した。皮膚の内側へ食い込むのではなく、中心から外へ幾重にも弧を描く。鉤爪を受け止め、折り、持ち主の外へ押し戻す向きだ。


ガイストが席を立ち、王女の肩へ検魔杖を当てた。これまでは魔力の強さだけを測っていた杖を、俺の図に合わせ、一方向ずつ動かす。


杖の先の光が、内向きでは暗くなり、外向きで強く灯った。


「……守護術式。それも、術者の命を灯にして動き続ける古い型じゃ。儂は魔力の量ばかり測り、この流れを見ておらなんだ」


「殿下。あなたのその痣は、呪いに罹らないよう、十九年間あなたを守り続けてきた。そこまでは、俺とガイストの二人で保証します」


ミレイユの唇が、震えた。


「まも、って……? 誰が、わたくしを……」


「術式の奥に署名の形があります。俺には読めない。だが――陛下。あなたには見覚えがあるんじゃないですか」


銀の脈の奥にある署名を、石板の隅へ大きく写す。三日月を抱く小鳥。国王が立ち上がり、椅子を倒した。


「……王妃の私印だ」


王は、喉を震わせた。


「あれが娘を産む前、毎夜唱えていた祈りがある。『我が命を灯に。我が娘ミレイユの生涯に、いかなる呪いも届かぬように』。余は、お守りを縫っているのだと思っていた。まさか、自らの命で……」


「刻んだのは、あなたを産んで亡くなられた王妃陛下です」


大聖堂が、水を打ったように静まった。


貴族席の最前列で、国王が、両手で顔を覆った。


「……お母、様……?」


「あなたはこの痣のせいで疎まれてきたんじゃない。この痣のおかげで、十九年間、生きてこられたんです。――この痣は、あなたを蝕むものじゃない。あなたを守り続けてきた、母君の祈りです」


ミレイユの瞳から、大粒の涙がこぼれた。


彼女は震える手で、自分の顔の紋様に――生まれて初めて、愛おしむように――触れた。


「お母様……ずっと、ここに、いてくださったのですね……」


崩れ落ちて泣きじゃくる王女の前で、俺は静かにダーモスコピーを収めた。


筒尻の「祈りの座」が、ほんの一瞬、温かく光った気がした。


剣なら、一瞬で決着がつく。三年かけて魔王を斬った俺が言うんだから間違いない。


でも視立てるってことは――いまある痕から、なぜ昨日が起きたのか、どうすれば明日を迎えられるかまで考えることなんだ。



浄化の儀は中止された。


正確には、国王が玉座の権限で「中止」を宣言した。さらに「王女ミレイユに呪いなし。鎮め布の着用を本日限りで廃す」と、その場で触れ書きを命じた。


それから祭壇を降り、人目もはばからず娘を抱きしめた。


ミレイユの両腕は、しばらく体の横に下りたままだった。十九年分の詫びは抱擁一つでは足りないし、十四年閉じ込めた扉は、父親が泣いたからといって勝手には開かない。


やがて彼女は、王の背へ手を置いた。抱き返したというより、倒れそうな老人を支えるような手つきだった。


ガイストは自分の帳面を開いたまま、最初の頁と王女の頬を見比べていた。


「鎮め布の十二日後。赤みの幅は布と同じ。儂は、ここまで書いておった。書いておって、繋げなんだ」


「その記録がなけりゃ、俺も着用十二日後とは分からなかった。十四年は無駄じゃない」


「慰めるな。……じゃが、借りにしておく」


世界をひっくり返された学者の目だった。敵に回すと厄介そうだが、もう一度同じ帳面を読む時は、さっきと違うものを見つけるだろう。


広場の群衆は、事の顛末が伝わると、割れるような歓声を上げた。飴細工売りは「視立て飴」に商品名を変えて、また衛兵にしばかれていた。商魂だけは呪いより逞しい。


帰り際、廊下で追いすがってきたのは、当のミレイユだった。


「レイジ様! わたくし、決めました。あなたの助手になります!」


「はい?」


「幽閉の十四年、離宮でできることは読書だけでした。薬草学ならば宮廷医にも負けません! あなた様は視えても治せない、わたくしは治せても視えない。視立てと薬、二人でひとつです! ね!?」


「いや、王女が下町で助手って、国王が泣くぞ」


「お父様は十九年分、泣けばよろしいのです」


笑顔が、痣ごと輝いていた。……ああ、こういう顔をさせるための神器なのか、あれは。



――その夜。


俺は宿の天井を見ながら、昼間の違和感を反芻していた。


あの守護紋は、十九年間ずっと稼働し続けていた。命を対価にした最高位の術式が、ただの「お守り」であるはずがない。


あれは、防ぎ続けていたのだ。


今も、この王都のどこかにある「何か」から。


『いかなる呪いも届かぬように』――届く距離に、呪いがあるということだ。


魔王は死んだ。俺がこの手で斬った。なのに王妃は十九年前、何を視て、命を懸けた?


……なあ、リュカ。


俺は今日、一人の女の子の十九年を、レンズ一枚でひっくり返しちまった。焼かれるはずだった子が、明日から陽の下を歩く。誰にも視られなかった痣が、母親の祈りに変わった。


剣を置いてから三ヶ月、ずっと考えてた。世界はもう救った。なら俺の残りの人生は、何のためにある?


――答えが出たよ。


お前の首筋の影を見逃した俺の目は、罰として、もう一生、視続けなきゃならねえんだ。この街の、路地の、寝床の中の、まだ名前もついてない「小さな影」を。一つ残らず。


それを罰と呼ばずに、仕事と呼ぶことにする。


明日、下町に看板を出す。視るのは皮膚、代金は銅貨一枚。二軒隣のかみさんが銀貨六枚の護符を三枚買わずに済むように、樽屋の親父が夜逃げしなくて済むように――誰にでも、視て、調べて、本当のことを言う店だ。屋号は決めた。「視立て屋」。俺が今日、勝手に作った言葉だ。文句は言わせない。


「……なあ、リュカ。今度は、見逃さねえよ」


窓の外、王都の夜景に向かって、俺は呟いた。


懐の中で、白銀の筒が、応えるように微かに熱を持った。


(第1話・了)

*次回予告:第2話「王都の水は嘘をつく」――ギルド受付嬢の肌荒れ、その毛穴の奥に、王都を蝕む「本当の呪い」の尻尾が視える。*


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### 今回の疾患メモ

**金属アレルギー性接触皮膚炎**:金属(ニッケルなど)に長期間触れ続けることで起こる、かぶれの一種。触れた部位に一致して赤みやかゆみ、ざらつきが現れ、原因の金属から離れれば軽快する。「触れているものの分布と皮疹の分布が一致する」ことが見抜く鍵になる。

※本作はフィクションです。実際の症状は皮膚科専門医にご相談ください。

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