34話 雑貨屋のロロおじさん
鼻腔に広がる芳醇な匂い。何度も深呼吸を繰り返し、その芳しさを堪能する。息を吸いすぎてちょっと過呼吸になりそうだけど、これはやめられない止まらない。
すーはーすーはー。
「キャシー、その、すまんが、あの」
「なに?どうしたの…あらジャックちゃん!?」
ちっ、バレたか。
クルルは俺に甘いから大丈夫かと思ってたけど、さすがにこれはアウトだったようだ。
「もー、何してるのよ。落ちたら危ないでしょ」
「ンミィー!」
離れまいと紙袋に必死にしがみつくが、問答無用で引き剥がされた。ああ、いい匂いが離れていく。
しばらくもがいて抵抗したが、キャシーの細い手は案外筋肉質で力強いらしい。しまいには諦めておとなしく抱っこされた。
うう、至福の時間が終わってしまった…パンがいっぱいに詰まった紙袋を恨めしい気持ちで見上げる。
「本当に好きなのね、でももうだめよ。お腹ぽんぽんになってるもの」
「ケフッ」
「ほらー」
おうふ、確かに腹が苦しいわ。子猫の胃袋って小さいな。
ちょっと苦しくなってえづいてたらクルルが心配そうに顔を近づけてきた。
おー、ごめんよ欲張って。そのパンは夕飯の後にでも一緒に食おうな。
「…歯が生えてないのに、パンを、食べていた」
大きな紙袋を抱えたクルルは、不思議そうに俺の顔を覗きこんだ。見れば紙袋には俺の爪の跡がぽつぽつとちーっちゃな穴になってるけど、まぁ大丈夫だろう。多分。
歯がなくっても食えるもんはけっこうあるぞ。森で見た黒パンみたく硬いのは無理だろうけど。
しかしパンをかじってるとヨダレが果てしなく出るのはどうにかならないかね。人間の赤ン坊もよく涎怪獣になるけど、もしかして歯がないとヨダレが倍になるとかそういうこと?
キャシーの胸に抱えられ、前足や鼻を舐めていたら上と横から覗き込まれていた。
なんだよ二人してニヤニヤと…
「うふふっ、もう離乳食はじめてもいいのかしら。普通の猫だったらまだ早いと思うけど、ジャックちゃんは魔物だしね」
「りにゅうしょく…」
「あー、はいはい。ミルクを卒業して、でもまだ普通のご飯は食べられないからふやかしたパンとかをちょっとずつ食べ始めるのよ」
へー、そういうもんか。
クルルと二人してなるほどと頷く。さすがガサツでも女の子、よく知ってるのな。
それにしてもあのパン屋さんは素晴らしかった。
パンがうまいのも当然として、なによりいいのは店員のハンナさん、むしろハンナ様。そのお姿を念入りに目に焼き付けてきたぜ。
あの、ド迫力の二つの山。下から見上げて顔が見えないってどんだけなの。元の世界ではあんなサイズ滅多にお目にかかれない…異世界最高!眼福、眼福。
しかし胸に目がいきがちだが、スラリとしていながら出るべきとこはしっかり出てる、ナイスすぎるスタイルも眩しかった。特にこう、ウエストから腰にかけた曲線と柔らかそうなふくらはぎがブラボー。
そしてそして髪飾りを恥ずかしそうに気にしながらの、あの流し目!
気が強そうな、どっちかと言うとかっこいいって雰囲気のお姉さまが恥じらう様、堪能させていただきました。あーたまらんわー。
「…なんかジャックちゃん酔っ払ってるみたい。変ね、ラム酒のパンはあげなかったんだけど」
「本当だ、なにか、揺れてるな」
おっと、いやいや気にしないでくれたまえよ。
天国まで舞い上がっていた桃色の思考を慌てて現実に引摺り落とし、居ずまいを正した。
「あ、ついたわ。そこが雑貨屋よ」
キャシーが指差す方には、茶色の屋根のやや大きな家が建っていた。
ドアに掲げられた看板は金属でできていて、なんか犬の模様が刻まれている。
つーか言われなくてもここが雑貨屋ってことは見てわかるぞ、店の前というかむしろ道の半分くらいまで雑多に物が積み上げられてるし。
なにこれ…樽、桶、イス、テーブルに木箱にと。古びた敷物もびろーんと垂れ下がってる、どれも扱いが雑だなー。
これ全部売り物か。汚れてはないんだけど、なんかきったねーな。せめて綺麗に列べとけよ、縦に積むとか危ないだろ。
そしてどうでもいいが、キャシーにぎゅっと抱えられてるので背中に柔らかい感触が。動くたび左右からこう、ぽにょんぽにょんと。
ううむ、ハンナ様と比べるとアレだが、これはこれでなかなかのもの。しかも体温が伝わってあったかーい。
うっとりとその感触に浸っていると、キャシーはごったごたの商品の真ん中にずんずんと踏みいっていく。
これ、崩れたら怪我しそうなレベルなんスけど。
立ち止まってしげしげと商品の山を眺めていたクルルが、ふいにぽつりと呟く。
「何か、叫び声が…店の、中から」
「え!?」
うお、いきなり走り出すなよキャシー、びびったぞ。
なんか犬の吠え声みたいのがかすかに聞こえてくる。キャシーはドアノブをひっ掴み勢いよく開いた。
「キャヒンキャヒンキャーーン!」
「わー落ち着け、大丈夫だって!そんなに怖いなら外に出なくてもいいから、頼むからメシぐらい食ってくれよ!なあ!?」
ドアを開くと、店内は思ったより広かった。
背の高い木のラックにところ狭しと雑貨類など細かな物が詰め込まれているが、通路は広くとってある。
これなら、外に品物出しとく必要ないんじゃね?全部中に置いときゃいいじゃん。
そんなことが一瞬頭に浮かんだけど、其れ処じゃないっぽかった。
「ロロおじさん、ボビーは一体どうしたの?」
「お、お嬢!」
「キューンキューン…」
見上げるほどでっかいおっさんが、これまたでっかい黒い犬を全身で抱え込んでいた。キャシーはそれを見てあっけにとられている。
耳の垂れた黒い犬は中々に獰猛そうな顔かたちをしているのだが、今は眉が垂れてる上にぶるぶる震えてて、おっさんに逆らい店の奥へ後ずさっていこうとしていた。しっぽも尻に挟み込まれ小刻みに震えている。
あ、おっさんにも犬っぽい耳としっぽがある。獣人ってやつか。
犬耳のおっさんは犬の頭を撫でながらため息をついた。
「俺にもわかんねーんだ、一昨日からベッドの下に籠っててよう、飯も散歩もいかねぇから心配で心配で…無理矢理にでも外に出したほうがいいかと引摺り出したら、これでなぁ」
おっさんは困り果てた顔で、犬を抱えたまま床に座り込んだ。
うわ、床が爪痕でボリボリになってる。すげぇ。
「クゥ?」
お?犬が顔を上げたぞ。こっち見てる。
うーむ、それにしても…でかいな。
こっちの犬ってこれが標準サイズなの?
魔物を従えてる「テイマー」ってのは珍しいらしいし、こいつは普通の犬…なのかなぁ?見れば見るほど迫力のある。
左目には大きな傷跡があり目付きも鋭く、黒光りする短い体毛に覆われた体は筋肉でデコボコしてる。なんか耳も縁がギザギザしててワイルドな感じ。
ほっぺたが弛んでブルンブルンしてるし、ブルドッグとドーベルマン足して割らない感じか。一言で言うと、俺なんて一口で食われそうな佇まいだ。
その強面の迫力と体格差に戦いていたら、キャシーが俺ごと犬のほうへ踏み出した。
うわ、待って犬めっちゃ俺見てるよ?やばくない?獲物認定されてないよね?
わたわたもがいて逃げようとするが、俺を抱える手は微動だにしない。
「ボビー?」
「ワフッ」
床に座っていた犬が、キャシーに呼ばれてこっちへ来た。さっきまでとは別の犬みたく軽やかにたったか走る。って、速!
「ワフン、フンフン…ベロベロベロベロ」
「ミャー!?」
「お、子猫か。良かったなぁボビー!可愛い新入りだぞ」
「ベロベロベロベロ」
「ウギャー!?」
やめろおおおおおお!!
助けてキャシー…っておい!?なぜに俺を前に付き出して自分は後ろに仰け反ってんの!?
「よ、良かったわねジャックちゃん!これで貴方もこの村の一員よっ」
ベロベロベロベロ。
「はっはっはっ、そうさーボビーが認めたんなら、もうここでお前をよそ者扱いするやつはいねーよー。良かったなぁ気に入られて、この村はいいとこだぞー」
「ギミャー!!フシャー!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結局俺は全身をヨダレパックされ、履いていたズボンも犬臭くされてしまった。
俺の一帳羅が…
「ミュ」
キッと上を見上げて、裏切り者を睨み付ける。俺を抱えて様子を見ていたキャシーが、さっと目を逸らした。
こんにゃろう、よくも俺をイケニエにしやがったな。
せめてもヨダレをお裾分けしてやる!と肩に登ろうとしたら、すかさずハンカチでぐるぐる巻きにされてしまったのだ。この女、俺をこんな目に合わせておいて涼しい顔してやがる。
ハンカチの春巻きみたいになってキャシーに抱っこされ、治まらないイライラに髭を震わせていたら、ふと気がついた。
あれ…俺、怖がられてなくね?
おっさんと犬をちらっと見る。
おっさんは嬉しそうに笑いながらキャシーと雑談している。ボビーはしっぽをブンブンふりながらその足元に座っていた。眉が垂れているのはもともとの顔立ちらしいな。
そして両者とも、こっちを警戒してる様子は全くなし。
あれえ?じゃ、村中の犬猫が怯えてるのって何が原因なの?俺が原因じゃなかったんじゃん、拍子抜けしちまった。




