07.ボブ殿下、どうしてジークハルトさまを気になさるの?
森で魔物に襲われてから、数日が過ぎた。
あの一本の木については、先生方が調べてくださっている。
私たちは事情を聞かれたものの、幸い大きな怪我をした人もおらず、授業にはいつもどおり出席していた。
ただ、私には少し、困ったことがある。
ジークハルトさまの顔を見ると、どうしても森での出来事を思い出してしまうのだ。
魔物を次々と斬り伏せた、あの鮮やかな剣さばき。
それから、倒れかけた私を抱き寄せてくださったときのこと。
あんなに近くで金色の瞳を見たのは、初めてだった。
……いえ、命を助けていただいたのだから、忘れられないのは当然よね。
そう自分に言い聞かせているのに、廊下の向こうに黒髪の青年を見つけるだけで、つい足が止まってしまう。
「エリス嬢」
先に気づいたのは、ジークハルトさまのほうだった。
「ごきげんよう、ジークハルトさま」
「ええ。ごきげんよう」
以前なら、ここで何かしら質問していたと思う。
けれど今日は、何を話せばよいのかわからない。
「……何かありましたか?」
「い、いいえ。何でもありませんわ」
「そうですか」
ジークハルトさまは少し不思議そうに私を見たあと、いつものように会釈して歩いていった。
せっかく向こうから声をかけてくださったのに。
私はその背中を見送りながら、自分でもおかしくなってしまった。
以前は、あんなに迷惑がられても平気で話しかけていたのにね。
その頃、学園には明るい知らせが届き始めていた。
各地で続いていた干ばつや大雨が、相次いで収まったのだという。
「うちの領地にも、ようやく雨が降ったそうよ!」
「こちらも川の水が引いたって。家から手紙が届いたの」
教室では、そんな声があちこちから聞こえてくる。
領地へ帰っていた生徒たちも少しずつ戻り、目立っていた空席が埋まり始めた。
「エリスさま、ごきげんよう」
聞き覚えのある声に振り向くと、メイが立っていた。
「メイ! 戻ってきたのね」
「はい。領地にもようやく雨が降りまして、家族も皆、元気にしております」
「それはよかったわ。ずっと心配していたのよ」
「ありがとうございます。私も、またエリスさまにお会いできて嬉しいです」
メイは頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
こうして顔を合わせると、学園に少しずつ日常が戻ってきたのだと実感する。
被害がなかったことになるわけではない。
それでも、無事を確かめて笑い合う姿を見ると、私まで嬉しくなる。
「これほど一斉に天候が落ち着くなんて、神の奇跡かもしれないわね」
そんなことを言う生徒もいた。
確かに、不思議なくらい急な変化だ。
けれど、理由が何であれ、これ以上被害が広がらずに済むのなら、それが一番だと思う。
教室が以前のにぎわいを取り戻していくにつれ、私の気持ちにも少し余裕が生まれてきた。
前世の記憶が蘇ってから、ずっと頭の中が忙しかったのだ。
悪役令嬢、乙女ゲーム、攻略対象。そして、ボブ、サム、トムという名前の数々。
そういえば、どうして私は、この国の名前をあれほど不思議に思ったのかしら。
王族の名前が短い理由なら、昔から知っている。
国民に広く覚えてもらえるよう、王族は短く親しみやすい名前を使ってきた。
その習慣を貴族たちも真似たため、王都では短い名前が多いのだ。
もちろん、どこの貴族もそうというわけではない。
王都から離れた地方には、長い名前をつける家もある。
ジークハルトさまは、地方の下級貴族として学園に通っていらっしゃる。
だから、あの名前を聞いても、ほかの方々は特に気にしなかったのだろう。
……私だけが、前世の感覚で大騒ぎしていたのね。
記憶が戻ったばかりの頃は、知っているはずの今世の常識まで、どこか遠く感じられた。
けれど最近は、前世のことも今の暮らしも、少しずつ落ち着いて考えられるようになっている。
名前が長いから重要人物に違いない、なんて。
今になって思えば、ずいぶん強引な推理だったわ。
もっとも、実際に魔王の息子だったのだから、まったく外れていたわけでもない。
……そこが、また悩ましいところなのだけれど。
ただ、ジークハルトさまのことを考えるとき、もう名前だけが気になるわけではなかった。
あの方は、人間界で何事もなく一年を過ごしたいと望んでいる。
それなのに私は、名前が気になるからと何度も話しかけ、正体を知ってからは世界征服まで疑ってしまった。
さぞ面倒な相手だったに違いない。
それでも、森では私たちを守ってくださった。
これ以上、根拠のない疑いで平穏を邪魔するのはやめよう。
そう決めたのに、姿を見かけると話したくなる。
しかも今度は、何を話せばよいのかわからなくなるのだから、我ながら困ったものだ。
「エリス、少しいいかな」
放課後、声をかけてくださったのはボブ殿下だった。
「もちろんですわ、殿下」
殿下の表情は、いつもどおり穏やかだ。
私たちは並んで廊下を歩き始めた。
「各地の天候が落ち着いて、よかったね」
「ええ。帰郷していた方々も戻ってきて、安心いたしました」
「そうだね。まだ大変な領地もあるだろうけれど、ひとまずは何よりだ」
殿下もずっと各地の状況を気にかけていらした。
こうして明るい知らせをお伝えできるのは嬉しい。
ところが、次に殿下が口にしたのは、思いがけない話題だった。
「ところで、最近もジークハルト君と親しくしているようだね」
「ええ。先日の課外授業でも同じ班でしたわ」
「……そう。随分と仲がよくなったんだね」
私は返事に迷った。
仲がよい、と言っていいのかしら。
以前よりお話しできるようにはなったけれど、私のほうが一方的に話しかけていた時間のほうが長い。
「以前よりは、お話しする機会が増えましたわ」
「エリスは、彼のことをどう思っているの?」
思わず殿下を見上げた。
「どう、と申しますと?」
「気になっているんじゃないかな。彼のことが」
胸の奥が、どきりとした。
確かに気になっている。
けれど、以前と今では、その理由が違うような気もする。
自分でもまだ、うまく言葉にできないのに。
「……とても、頼りになる方だと思いますわ」
森での出来事を思い出しながら答えると、殿下の表情がわずかに強張った。
「そう。でも、あまり親しくしすぎないほうがいいと思う」
「どうしてですの?」
「……僕は、君がほかの男性と親しくしているのを、あまり見たくないんだ」
思いがけない言葉に、私は殿下を見つめた。
殿下は一瞬、何かを言いかけたように唇を動かした。
けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「ごめん。今のは忘れてほしい。少し言いすぎたね」
「……殿下?」
「……どうしてだろうね。彼のことになると、僕も冷静ではいられないみたいだ」
殿下がそんなことをおっしゃるなんて、意外だった。
以前は、私の振る舞いがジークハルトさまの負担になることを心配してくださった。
けれど今日は、殿下ご自身がジークハルトさまを気にしていらっしゃるように思える。
いったい、何がそれほど気になるのだろう。
「それじゃあ、また明日」
「はい。ごきげんよう、殿下」
殿下を見送ったあとも、先ほどの会話が頭から離れなかった。
ボブ殿下は優しく、公正で、誰に対しても穏やかな方だ。
私の話にも、いつも丁寧に耳を傾けてくださる。
そんな殿下が、ジークハルトさまのことになると冷静ではいられないという。
……殿下は、いったいどうなさったのかしら。




