04.魔王の息子に世界征服の予定を聞いてみました
鳥の上に浮かんでいた女性の姿が、ふっと薄れた。
姿が完全に消え、残された鳥は翼を広げて飛び去っていく。
私はその姿が見えなくなるまで、ただ見送っていた。
魔王の子。
先ほどの女性が口にした言葉を、私は頭の中で何度も繰り返していた。
目の前にいるのは、黒髪に金色の瞳をした、物静かな青年。何度も話しかけて、ようやく少し会話が続くようになったジークハルトさまだ。
その人が、魔王の息子?
前世のゲームで、魔王といえばラスボスの定番だった。
人間界を脅かし、主人公たちの前に立ちはだかる、恐ろしい存在。
そんな魔王の息子が、身分を偽って学園に通っているなんて。
「ジークハルトさま」
「……はい」
「人間界を征服するおつもりですか?」
ジークハルトさまは唖然とした表情で、私の顔を見つめた。
「……は?」
「いえ、魔王のご子息が、わざわざ人間の学園にいらっしゃるということは、何か目的がおありなのではと」
「どうしてそこで征服という話になるんだ」
その声には、怒りよりも困惑が滲んでいた。
「俺が人間界を征服して、何の得がある?」
……俺?
これまでジークハルトさまは、ご自分のことを「私」とおっしゃっていたはず。
あまりに驚いて、普段の言葉遣いが出てしまったのかしら。
「ですが、魔王といえば……」
「魔王といえば?」
「……とても強い方、という印象が」
「それは否定しないが、強いからといって何でも征服するわけじゃない」
ごもっともだわ。
けれど、ゲームなら魔王の息子が学園に潜入しているなんて、絶対に何かあるはずなのよ。
もちろん、そんなことを説明できるわけもない。
ジークハルトさまは、どう答えたものかと考えているらしかった。
「何も話さないほうが、かえって妙な疑いをかけられそうだな」
「では、本当の目的を教えてくださるのですか?」
「成人の儀式だ」
成人の儀式?
思いがけない答えに首を傾げると、ジークハルトさまは魔界の王族に伝わる習わしを説明してくださった。
人間界で一年間暮らすこと。
それを終えて初めて、成人として認められるのだという。
どこでどう過ごすかは本人の自由で、その間に立てた功績も評価されるらしい。
「では、何かを討伐したり、秘宝を探したりするのですか?」
「そういう者もいる。魔界にいるうちから剣術を鍛えて、人間界では冒険者になる者もいるな」
「ジークハルトさまも、何か大きな功績を?」
「いや。俺は何事もなく一年が過ぎれば、それでいい」
……え?
あまりにもあっさりした答えに、聞き間違えたかと思った。
「功績を立てなくてもよろしいのですか?」
「功績は評価されるが、必須ではない。何を成し遂げようと、一年という期間は変わらないからな」
「それで、学園を選ばれたのですか?」
「貴族の子女が通う場所なら安全だろうと思ったんだ。人間界のことも学べるし、図書館もある。退屈せずに済むだろう」
なるほど。確かに、学園なら授業を受けているうちに一年が過ぎる。
……魔王の息子にしては、ずいぶん堅実な計画ではないかしら。
「地方の下級貴族なら、誰にも注目されずに済むはずだったんだが」
そこで、ジークハルトさまが私を見る。
その視線の意味に気づくまで、少しかかった。
「……私のことですか?」
「ほかに誰がいる?」
うっ。
名前が気になって何度も話しかけたうえ、とうとう正体まで知ってしまった。
静かに過ごしたかったジークハルトさまからすれば、迷惑な相手に違いない。
「申し訳ありません。もちろん、正体は誰にも話しませんわ」
「それは助かる」
それでも、すべての疑問が解けたわけではない。
あの女性は、ジークハルトさまより大きな功績を立てるつもりのようだった。
そんな姉君がいるのに、本人は図書館で静かに過ごしたいだなんて。
……本当に、それだけなのかしら?
翌日になっても、私はそのことを考えていた。
魔王の息子という響きと、昨日聞いた平穏な生活計画が、どうしても頭の中で結びつかない。
「そういえば、図書館で魔力測定の催しをやっている。興味のある者は覗いてみるといい」
授業の終わりにそう告げたのは、魔術理論を担当するロイド先生だった。
魔術具の研究にも詳しく、授業中に術式の仕組みを説明するときは、いつも熱が入る。
何人かの生徒が催しについて話し始めたけれど、私の関心は別のところに向いていた。
魔力。
そういえば、魔王の息子の魔力とは、いったいどれほどのものなのだろう。
あれほど平穏を望んでいても、ひとたび本気を出せば学園を吹き飛ばせるくらい強いのかもしれない。
……いえ、さすがにそれは考えすぎかしら。
授業が終わってからも気になってしまい、私はジークハルトさまを見かけたとき、つい声をかけてしまった。
昨日、静かに過ごしたいと聞いたばかりなのに。
そう思いながらも、周囲に人がいないことを確かめてから尋ねる。
「ジークハルトさまは、やはり凄まじい魔力をお持ちなのですか?」
「本来なら、それなりには。だが、今は大半を封じられている」
「封じられている?」
「成人の儀式の間は、そういう決まりなんだ。今の俺に残っているのは、人間の一般人と同じ程度だな」
「では、魔術はまったく使えないのですか?」
「いや。一般人向けの魔術具を動かす程度なら問題ない。まったく使えないわけじゃないんだ」
魔王の息子なのに、今は普通の人間と同じくらいの魔力しか使えない。
それなら、世界征服どころではないのでは?
「……何だ、その顔は」
「いえ。少し安心したと申しますか」
「まだ征服の話を気にしていたのか?」
呆れられてしまった。
でも、魔力が封じられていても、剣術まで使えなくなったわけではないだろう。
魔界にいるうちから剣術を鍛える者もいるとおっしゃっていたのだし、剣の腕は失わないようだ。
もっとも、ジークハルトさまがどれくらい剣を使えるのかはわからないが。
「俺が何かしたら、また疑うつもりだろう?」
「そ、そんなことは……」
ジークハルトさまは、返事の続きを待つことなく話を切り上げた。
……今度こそ、根拠もなく疑うのはやめよう。
「うちの領地、もう何日もまともに雨が降っていないらしいんだ」
「こちらは逆よ。川の水が増えて、近くの村が心配だって家から手紙が来たわ」
授業が始まる前、そんな会話が聞こえてきた。
国内の一部では干ばつや大雨が続いているらしい。
初めは遠い地域の話だと思っていたけれど、故郷の様子を心配する生徒の声は、日ごとに増えていた。
そんな折、ボブ殿下とお話しする機会があった。
殿下も各地の状況を案じていらっしゃるようだった。
「被害が広がっているようだね。国としても、何かできることがあればいいのだけれど」
「ええ。少しでも早く、落ち着いてくれるとよいのですが」
ボブ殿下のお立場なら、なおさら気がかりだろう。
私も、被害を受けている人々が無事であるよう願わずにはいられなかった。
ほどなくして、被災した領地の出身者が、家族や領地の様子を確かめるために帰郷することになった。
初めは数人だった。それが、日を追うごとに増えていく。
「エリスさま。私も、しばらく領地へ戻ることになりました」
そう告げてきたのは、メイだった。
「メイのところも、被害が出ているの?」
「はい。家族は無事なのですが、領地では雨が降らず、困っているそうです」
「そうだったの……。心配ね」
「ええ。でも、落ち着いたらすぐに戻ってまいります」
「そのときは、またお話ししましょうね」
そう伝えると、メイは嬉しそうに微笑んだ。
翌日、メイの姿は学園から消えていた。
ほかにも、昨日まで隣の席で授業を受けていた生徒が、今日はもういない。
いつもと同じ時間に始まった授業。先生の声も、窓から差し込む日差しも、何ひとつ変わらない。
それなのに、教室を見渡せば、あちらにも、こちらにも空席がある。
遠い土地の災害だと思っていたものが、今は目の前の空席となっていた。
それでも、学園の授業は普段どおりに行われている。
以前から予定されていた課外授業も、変更なく実施されることになった。
今回の課外授業は、森での実地学習だ。
四、五人ずつ班を組み、指定された範囲で植物や昆虫を観察するという。
森へ行くと聞いて、私は真っ先にジークハルトさまの顔を思い浮かべた。
魔王の息子が人間界の森を歩く。
なんだか、それだけでイベントが始まりそうではない?
……いえ、またゲームのことばかり考えているわ。
そもそも、ジークハルトさまは静かに一年を過ごしたいとおっしゃっていたのだから。
「それでは、班を決めてください。森では指定された範囲から出ないよう、十分に注意すること」
先生の説明が終わると、教室がにぎやかになった。
私は席を立ち、少し離れたところにいるジークハルトさまのもとへ向かう。
「ジークハルトさま、一緒の班になりませんか?」
「……エリス嬢ですか」
「ご迷惑でしょうか?」
「いえ。もう慣れましたので」
以前なら、遠回しに断る言葉を探していらした気がする。
それが今では、少々呆れた顔をしながらも、すんなり承諾してくださった。
……慣れた、というのは喜んでいいのかしら。
それにしても、魔王の息子と一緒に森で課外授業だなんて。
ジークハルトさまは平穏な一年を望んでいらっしゃるけれど、私にはどうしても、何も起こらずに終わるとは思えない。
……だって、ゲームなら絶対に何かが起こる場面でしょう?




