14.ほかの令嬢のお誘いを断って、私をダンスに誘ってくださいました
学園の大広間は、いつもとはまるで違う場所に見えた。
天井から吊るされた魔術灯が柔らかな光を落とし、楽団の奏でる音楽が人々の話し声に重なる。
色とりどりのドレスが行き交うなか、私はつい黒髪の青年を探してしまう。
ジークハルトさまは、もういらしているのかしら。
舞踏会の前に、私からダンスにお誘いできなかったことが、まだ心に引っかかっている。
「エリス」
声をかけられて振り向くと、ボブ殿下がいらっしゃった。
礼装をまとった殿下は、普段より大人びて見える。
「ごきげんよう、ボブ殿下」
「今夜は一段と綺麗だね。君の姿を見られて嬉しいよ」
「ありがとうございます。殿下も、とても素敵ですわ」
「そう言ってもらえると嬉しいな。……この前の約束、覚えているかい?」
殿下が差し出した手を見て、私は微笑んだ。
「もちろんです。どうぞよろしくお願いいたします」
楽団が新しい曲を奏で始める。殿下のリードは滑らかで、足運びにも迷いがない。
そのおかげで、私も自然と音楽に身を任せることができた。
「一緒に来られなかったのは残念だけど、こうして踊れてよかった」
「私も楽しいですわ。お誘いいただき、ありがとうございます」
「……そういえば、最近はジークハルト君と親しくしているようだね」
突然その名前が出て、次の足運びを間違えそうになる。
「ええ。森でのこともありますし、何かとお世話になっています」
「君は彼をずいぶん信頼しているんだね」
「はい。とても誠実な方ですから」
殿下の手に、わずかに力がこもったような気がした。
けれど、ダンスの調子は変わらない。
「僕にも、もっと頼ってほしいな。君の力になれることは、きっとあるから」
「ありがとうございます。そのお気持ちだけでも心強いですわ」
「今夜は、彼とも踊るのかい?」
「いいえ。お約束はしていません」
「……そうなんだ」
殿下は私を見つめ、それから微笑んだ。
何か気になることでもあるのだろうか。
尋ねる間もなく曲が終わり、私たちは互いに礼をする。
「ありがとう、エリス。またあとで話せるといいね」
「ええ。楽しい時間をありがとうございました」
殿下と別れ、私は会場を見渡した。
そのとき、柱のそばに立つジークハルトさまが目に入る。
濃い色の礼装が黒髪によく似合っていて、いつもよりいっそう目を引いた。
遠くからでも、あの金色の瞳がわかる。
……素敵。
声をかけたい。
けれど、先ほどボブ殿下と踊ったばかりなのに、今度は自分からジークハルトさまを誘うなんて、少し大胆すぎるかしら。
そんなことを考えていると、彼に近づく女性がいた。
メイだ。
思わず二度見してしまった。
亜麻色の髪は美しく結い上げられ、胸元の開いたドレスが、彼女の印象をすっかり変えている。
メイはジークハルトさまの前で足を止め、にこやかに何かを話しかけた。
彼が答えると、メイは口元に手を添えて笑う。
それから、彼の顔を覗き込むように身を寄せた。
……ずいぶん親しげね。
メイは、ジークハルトさまが私にはふさわしくないと心配していたはずだけれど。
でも、私とメイでは家柄も立場も違う。
公爵令嬢の私には釣り合わないと思っていても、メイ自身のお相手としてなら、話は別なのかもしれない。
そう考えると、舞踏会の前にジークハルトさまのことをあれこれ尋ねてきたのも、少し違った意味に思えてくる。
メイはさらに一歩近づき、彼の胸元に指先を添えた。
えっ?
ジークハルトさまが身を引く。
けれど、メイは離れようとしない。
むしろ、何かを訴えるように首を傾げ、彼の腕に両手を伸ばした。
周囲にはほかの生徒もいるのに、あんなに身体を寄せようとするなんて。
私の知っているメイは、ああいう振る舞いをする子だったかしら。
戸惑いながら見つめていると、ジークハルトさまがこちらを向いた。
視線が合う。
私は急に、自分が二人を見つめ続けていたことを恥ずかしく思った。
まるで、見てはいけないものを見てしまったような気がする。
いくら気になっても、私はジークハルトさまの恋人でも婚約者でもない。
あの二人がどんな関係になろうと、口を挟む立場ではないのだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残る重たいものは消えない。
私は二人に背を向け、人の流れに沿って歩き出した。
「エリス嬢!」
背後から、ジークハルトさまの声が響いた。
驚いて振り返ると、彼が人混みを縫うようにしてこちらへ向かってくる。
いつもは落ち着いているのに、今はどこか切羽詰まった様子だ。
私の前まで来たところで、ジークハルトさまは足を止めた。
さっきまで彼のそばにいたメイの姿はない。
「ジークハルトさま。どうなさったのですか?」
「先ほどのことですが、誤解しないでください。メイ嬢から誘われましたが、お断りしました」
「……え?」
まさか、わざわざ追いかけてきて、そんな説明をしてくださるなんて。
嬉しいと思ってしまった自分に、余計に戸惑う。
「私にお気遣いいただかなくても大丈夫ですわ。ジークハルトさまがどなたと親しくなさるかは、ジークハルトさまの自由ですもの」
「そうかもしれません。ですが、エリス嬢には誤解されたくなかったのです」
まっすぐに告げられ、返事が見つからない。
私には誤解されたくない。それは、どういう意味なのかしら。
尋ねる勇気はないのに、都合のよい答えばかり浮かんでしまう。
「それと、もう一つ」
ジークハルトさまが私の前に立ち、そっと片手を差し出した。
「エリス嬢。よければ、私と一曲踊っていただけませんか?」
「……私と、ですか?」
「ええ。あなたと踊りたいと思っていました」
舞踏会の前、ジークハルトさまから誘っていただけたらと、何度も考えていた。
けれど、そんな期待をしてはいけないと、自分に言い聞かせていたのだ。
それなのに、今、ジークハルトさまが私を誘ってくださっている。
「はい。喜んで」
差し出された手に、自分の手を重ねる。
彼の指が優しく私の手を包み、二人で広間の中央へ向かった。
次の曲が始まる。
ジークハルトさまは落ち着いた足取りで私を導いてくださった。
魔界と人間界では作法が違うとおっしゃっていたけれど、戸惑っている様子はない。
「お上手ですのね。初めてとは思えませんわ」
「基本はそれほど変わらないようです。もし間違えていたら、教えてください」
「ふふ。私が教えていただくことになりそうです」
笑い合ったところで、彼の手が私の背に添えられる。
森で抱き寄せられたときのことが、ふいによみがえった。
あの夜、唇に触れたような感触まで思い出し、頬が熱くなる。
けれど、今は幻影を見せられているわけではない。
彼の手の温かさも、すぐ近くで聞こえる声も、確かにここにある。
曲に合わせて向きを変えたとき、会場の端にボブ殿下が見えた。
殿下は私たちを見つめ、愕然とした表情で立ち尽くしている。
……何かあったのかしら。
目が合うと、殿下は口元を引き上げようとなさった。
けれど、笑顔にはならず、強張ったままの表情が残る。
どうなさったのだろう。
けれど、曲に合わせて身体の向きが変わると、殿下の姿は見えなくなった。
「エリス嬢、どうかしましたか?」
「……いいえ。何でもありませんわ」
ジークハルトさまのほうへ視線を戻すと、彼は私の歩調に合わせてゆっくりと回ってくださった。
今はこの曲を、大切に踊りたい。
舞踏会が始まる前は、一曲だけでもご一緒できれば十分だと思っていたのに。
音楽が終わりに近づくにつれて、もう少しだけ、彼の手を取っていたくなった。




