12.静かに過ごすはずが、たった一人の令嬢に振り回されるとは(ジークハルト視点)
成人の儀を迎えるにあたって、俺が滞在先に選んだのは人間界の学園だった。
魔力を封じた状態で一年を過ごすなら、危険の少ない場所がいい。
学園なら勉強にもなるし、図書館には人間界の書物が揃っている。
何より、余計な騒ぎに巻き込まれずに済みそうだった。
目立たず、静かに、学ぶべきことを学ぶ。
成人の儀が終われば魔界へ戻る。
それだけの一年になるはずだったのだ。
ところが、入学して間もなく、その計画は崩れ始めた。
原因は一人の令嬢である。
エリス・ヴェルフォード。
公爵令嬢でありながら、なぜか下級貴族として学園にいる俺に興味を持ち、会うたびに声をかけてくる。
最初は、何か思惑があるのかと警戒したものだ。
まさか、正体を隠していることに勘づかれたのだろうか。
それとも、魔界の者だと見抜かれた?
いや、そんなはずはない。
俺は人間界に来てから、正体が露見するような真似はしていないのだから。
彼女の周囲には、近寄りがたい令嬢だという噂もあった。
だが、実際に話してみれば、妙なところで率直で、驚くほど行動力がある。
自分の目で確かめたことを大切にする人でもある。
俺が魔王の息子だと知ったときには、さすがに態度が変わるだろうと思った。
しかし、エリス嬢は違った。
驚きはしても、俺を遠ざけようとはしない。
それどころか、こちらが面食らうほど自然に接してくる。
……本当に、不思議な令嬢だ。
そう思っていたはずなのに、いつからだろう。
廊下で金色の髪を見かけると、つい目で追うようになったのは。
決定的だったのは、森での一件かもしれない。
課外授業で魔物が現れたとき、エリス嬢は逃げるどころか、自分の魔術で立ち向かっていた。
あの状況で落ち着いて戦える生徒は、そう多くないだろう。
彼女を抱き寄せて庇ったのは、危険が迫っていたからだ。
あの場で迷う理由などなかった。
それなのに、あとから何度も思い出した。
腕の中に収まった彼女の体。
間近にあった緑色の瞳。
こちらを見上げたときの、驚いたような表情。
思い返していること自体に気づいて、俺は首をかしげたものだ。
あれ以来、エリス嬢も俺の顔を見ると、時折落ち着かない様子を見せる。
何か気にしているのだろうかと考えたが、本人に尋ねるのもためらわれた。
そして、あの夜である。
特殊な栞を使って夜の学園を調べる。
危険があればすぐに引き返す。
そう約束していたのに、術は予想以上に厄介だった。
エリス嬢の魔力を利用して、思考に干渉する。
魔界では見慣れた仕組みでも、彼女ほど魔力の強い者が標的になると、影響は凄まじい。
幻影に導かれる彼女の手を握り、何度も声をかけた。
俺の声は届いている。
それでも、術に逆らうことができない。
やがて魔力を吸い取られ始めたとき、背筋が冷えた。
術式の構造は読める。
だが、封印された今の俺には、それを力ずくで破るだけの魔力がない。
解除するには、エリス嬢自身の力が必要だった。
ところが、呼びかけても彼女の意識は戻らない。
このままでは間に合わない。
何か、強い衝撃を与えられれば。
そう考えた次の瞬間、俺は彼女に口づけていた。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だ。
エリス嬢が目を見開き、俺を見た。
その瞳には、確かに意識が戻っている。
俺はすぐに術式の要点を伝え、彼女の魔力を導く。
術が破れ、魔力の流出が止まったときには、ようやく息ができた気がした。
あの判断が間違いだったとは思わない。
突然の口づけは彼女を驚かせ、術から一瞬だけ引き戻した。
その一瞬がなければ、どうなっていたかわからない。
だから、後悔はしていない。
していないのだが……。
思い出すと、どうにも顔が熱くなる。
あれは彼女を助けるための行動だった。
それは間違いない。
なのに、唇に触れた柔らかさまで、はっきり覚えているのはどういうわけだ。
しかも、あの夜以来、エリス嬢と顔を合わせるたびに思い出してしまう。
昨日もそうだった。
俺が体調を尋ねると、彼女は少し慌てたように返事をした。
何か言いかけてはやめ、視線をそらす。そのたびに、こちらまで落ち着かなくなる。
覚えているのだろうか。
あのときの彼女は、術の影響で意識が曖昧だった。
何が起きたのか、わかっていない可能性もある。
もし覚えていなければ、俺から告げるべきなのか。
いや、いきなり「あの夜、君に口づけをした」などと言えるはずがない。
では、覚えていたら?
……それはそれで、何を言えばいいのかわからない。
彼女に不快な思いをさせていないだろうか。
助けるためだったとはいえ、断りもなくしたことだ。怒られても仕方がないと思う。
それなのに、彼女が俺を避けるようになったらと想像すると、胸の奥が重くなった。
何事もなかったように話しかけるのは、平然としているからではない。
むしろ逆だ。少しでも気を抜けば、こちらの動揺を見抜かれてしまいそうなのである。
魔界ではそれなりに厄介な相手とも向き合ってきたつもりだ。
しかし、たった一人の令嬢を前に、何を話すべきか迷うことになるとは思わなかった。
俺は机に広げていた本へ視線を戻す。
同じ行を三度読んだところで、ようやく内容が少しも頭に入っていないと気づいた。
……重症だな。
ため息をついて本を閉じると、傍らに置いた学園からの案内が目に入った。
近く開かれる舞踏会についての知らせだ。
こうした催しも学園生活の一部だろう。
参加するにしても、目立たずに過ごすつもりでいた。
少なくとも、少し前までは。
エリス嬢も出席するのだろうか。
公爵令嬢の彼女なら、ダンスに誘う相手には事欠かないはずだ。
そう考えると、なぜか面白くない。
自分でも勝手な話だと思う。
誰と踊るかは彼女が決めることで、俺が口を出すことではない。
それでも、もし彼女の手を取ることができたら、と考えてしまう。
森では彼女を守るために抱き寄せ、夜の学園では離さないように手を握った。
どちらも必要に迫られてのことだった。
今度は、危険など何もない場所で。
ただ俺が望むから、彼女の手を取りたい。
そこまで考えて、思わず笑ってしまった。
一年間、静かに過ごすはずだったのに。
どうやら俺は、エリス嬢に出会ってからというもの、予定どおりに過ごせたためしがない。
そして今、舞踏会で彼女を誘うべきかどうかを、真剣に考え始めている。




