10.ジークハルトさま、今のは口づけですか!?
夜の学園で、ジークハルトさまと二人きり。
昼間なら何とも思わないはずの距離が、今夜はひどく近く感じられた。
待ち合わせ場所に現れたジークハルトさまを見たときから、どうにも落ち着かない。
いつもは学園の制服姿しか見たことがないけれど、今夜はシンプルなシャツとズボンを身につけていらっしゃる。
飾り気のない服装だからこそ、すらりとした長身や、しっかりとした肩幅が目を引いた。
……制服のときも素敵だと思っていたけれど、私服だとまた違って見えるのね。
つい見惚れていると、ジークハルトさまがこちらを向いた。
「エリス嬢、今日はいつもと雰囲気が違うな」
「そ、そうでしょうか」
私は自分のワンピースに目を落とした。
今夜は何かあったときに動けるよう、動きやすさを重視して選んだものだ。
もっとも、この一着に決めるまでには、ずいぶん迷ってしまった。
事件の調査なのだから、服装にこだわっている場合ではない。
そう思いながらも、ジークハルトさまにお会いするのだと考えると、なかなか決められなかったのだ。
そんなこと、もちろんご本人には言えない。
「動きやすい服を選んだだけですわ」
「そうか。よく似合っている」
「……ありがとうございます」
あれほど迷った甲斐があった、なんて思ってしまう自分が恥ずかしい。
寮へ続く道には人影がなく、建物の窓にも明かりはほとんど残っていない。
聞こえるのは、風に揺れる木の葉の音と、二人分の足音だけ。
「エリス嬢、寒くないか?」
すぐ隣から声をかけられ、思わず肩が跳ねた。
「だ、大丈夫です」
「そうか。顔が赤いように見えたから」
「それは……歩いてきたせいだと思います」
こんな暗がりで、よく見えるものね。
どうか、それ以上は気にしないでほしい。
森で魔物に襲われたとき、ジークハルトさまは私を抱き寄せて守ってくださった。
あれから、近くに立たれるだけでも妙に落ち着かない。
しかも今夜は、学園の寮の近くで、二人きりで待ち合わせ……ではなく、事件の調査である。
そう、調査。決して浮かれてよい状況ではない。
私はポケットの中の栞に触れた。
トムさまから借りた、特別な模様の入った栞。
これが被害者たちに共通する品だとわかっても、実際に何が起きるのかは確かめてみなければわからない。
精神への干渉を想定して、抵抗力を高める魔術もかけてある。
「最後に確認する。異変があったら、すぐに引き返す。無理はしない」
「はい。お約束したとおりに」
「俺から離れないことも」
「もちろんです」
迷いなく答えたものの、改めて言われると胸が騒ぐ。
ジークハルトさまは私の返事を聞いて、安心したように微笑んだ。
その顔をもっと見ていたくなって、慌てて視線をそらす。
そのとき、ポケットの中がかすかに熱を帯びた。
「……栞が」
取り出そうとした指が止まる。
何をしようとしていたのだろう。
さっきまで頭の中にあった考えが、霧の向こうへ遠ざかっていく。
「エリス嬢?」
ジークハルトさまの声がした。
顔を上げると、少し先にもジークハルトさまが立っていた。
……あら?
隣にもいるのに。
前にいる彼は私を見つめ、こちらへ来るように手を差し伸べる。
行かなくては。
理由はわからないけれど、あの人のところへ行かなければならない。
「エリス嬢、どうした?」
「ジークハルトさまが……あちらにも」
隣の彼が、私の見つめる先へ目を向けた。
「誰もいない。エリス嬢、俺の声は聞こえるか?」
「でも、そこに……」
足が前へ出かけた瞬間、手を握られた。
驚くほど確かな温もりが、指先から伝わってくる。
「俺はここだ。君の隣にいる」
見上げると、金色の瞳がすぐ近くにあった。
そうだ。私たちは一緒に来たのだ。
前にいるのは、たぶん幻影。わかっているのに、目を離すとまた引き寄せられそうになる。
「……あちらへ、行かなければいけない気がします」
「魔力を利用して、思考に干渉しているのか……?」
ジークハルトさまが眉をひそめた。
「……まさか、魔界の術式か?」
「魔界の、ですか?」
「ああ。相手自身の魔力を利用して、術の効果を強める仕組みだ。魔界では珍しくないが、どうして人間界で……」
ジークハルトさまは訝しげな表情を浮かべた。
「魔力が強いほど、術の影響も強くなる。君ほどの魔力があれば、相当強い干渉を受けているはずだ」
「それでは……私がかけた抵抗の魔術も……」
「効いてはいるはずだ。こうして話せているからな。ただ、それだけでは足りない」
悔しい。
自分の意思で動きたいのに、前方のジークハルトさまが歩き始めると、ついていきたくてたまらなくなる。
隣の彼が、私の手を握り直した。
「行き先を教えてくれ。俺も一緒に行く」
「……はい。あちらです」
手を引かれながら進む。
こんなふうに手を繋ぐのは初めてだというのに、喜ぶ余裕はほとんどなかった。
それでも、指を包む温かさだけが、今の私を現実につなぎ留めてくれている。
この手を離されたら、幻影に従ってしまいそうで怖かった。
幻影は振り返らずに進んでいく。
どの道を通ったのか。途中の景色は曖昧で、ただ足元の石畳だけが妙にはっきり見えた。
やがて、幻影が立ち止まった。
──何かが、身体の奥を掴んだ。
「……あっ」
膝から力が抜ける。
ジークハルトさまがとっさに抱き留めてくれたが、立っていられない。
魔力が流れ出している。
自分の内側にあるはずのものが、どこかへ引きずり出されていく。
「エリス嬢!」
耳元の声が遠い。
幻影の彼は、まだそこにいる。こちらへ来いと呼んでいる気がした。
「魔力の吸収まで組み込んであるのか……。術式はわかった。だが、今の俺の魔力では足りない」
ジークハルトさまが私の身体を支えながら、何かを確かめている。
「エリス嬢、聞いてくれ。君の魔力が必要なんだ。俺の指示に合わせて動かせるか?」
「……ま、りょく……」
言葉の意味はわかる。
けれど、考えようとすると、頭の中が白くなる。
あちらへ行かなければ。
呼ばれているのだから。
「エリス嬢。俺を見て」
頬に手が触れた。
顔を上げたつもりなのに、視線が定まらない。
「頼む。戻ってきてくれ」
声に切迫した響きがあった。
ジークハルトさまが、そんな声を出すなんて。
そう思った次の瞬間、彼の顔が近づいて──。
唇に、柔らかなものが触れた。
「……っ!?」
心臓が大きく跳ねた。
何? 今、何を──。
目の前に、金色の瞳。
私を抱き留めている腕の強さ、そして頬に残る手の感触。
どれも幻影ではない。
「エリス嬢、今だ。俺の声を聞いてくれ」
ジークハルトさまが私の手を取った。
「吸収の術式を断つ。俺が流れを示すから、君の魔力をそこへ集中させて」
「……はいっ」
まだ頭は重い。
けれど、今なら彼の言葉を追える。
示された魔力の流れを感じ取ろうと、意識を研ぎ澄ませた。
身体から奪われる力とは別に、自分の意思で動かせる魔力が残っている。
「そこだ。今!」
残った力を一気に送り込む。
見えない何かが軋み、張り詰めていた糸が断ち切られるような感覚が走った。
途端に、身体を引かれる力が消えた。
「……止まった、のですか?」
「ああ。もう吸い取られていない」
ほっとした途端、足元がふらつく。
ジークハルトさまは私を支えたまま、ゆっくりと座らせてくださった。
「気分は?」
「少し、疲れました。でも、大丈夫です」
「すぐに動かなくていい」
彼の手は、まだ私の手を握っていた。
そのことに気づいた瞬間、頬が熱くなる。
けれど、それ以上に気になることがあった。
さっき、唇に何かが触れたような……。
思い出そうとすると、記憶の輪郭が崩れてしまう。
幻影のジークハルトさまもいた。
二人の姿が重なって、何が本当に起きたのかわからない。
まさか、口づけなんて。
「エリス嬢?」
「な、何でもありません!」
勢いよく答えてしまい、彼が目を瞬かせた。
その顔を見ると、ますます聞けなくなる。
もし幻だったら、そんなことを尋ねるなんて恥ずかしすぎるもの。
少し休んでから、ジークハルトさまは先ほど術式が働いていた場所へ目を向けた。
「吸い取った魔力は、ここに留まっていない」
「どこかへ送られていたのですか?」
「ああ。術式に残った流れを追うと、下へ続いている」
私は思わず足元に目を落とした。
何も変わったところはないけれど、この下に術式が続いているのだと思うと、妙な気分になる。
「……学園の地下、ですか?」
「そうだ。ただ、途中から先は追えない。何があるのかまではわからないな」
地面の下に何かがある。
被害に遭った生徒たちから奪われた魔力も、そこへ送られていたのだろうか。
「ジークハルトさま。先ほどの術式は、やはり……」
「魔界のものだ。相手の魔力を利用する仕組みも、魔力を奪うための構造も、見覚えがある」
彼の表情は険しかった。
「どうして、人間界の学園に魔界の術式があるんだ……?」
答えられるはずもない。
……この学園の地下には、いったい何が隠されているの?




