Day 05. 旅人
「ほら、そっち行ったぞ!」
闊達とした茶色の髪の少年が声を飛ばす。剣を握る彼の視線の先にいたのは、短草草原を駆ける兎の後ろ姿だった。兎と言っても、その大型犬ほどの体躯があり、細長い草しか食べられなさそうな口の中には肉を噛み千切るための鋭い歯が環状に並び、瞳は猫のように細長く。おおよそこの世の生き物とは思えない。
それが、『魔物』と呼ばれる生き物。
この世界をあちこち旅してきたマルセルだが、魔物に遭遇したことは片手で数えることしかない。いることは知っていても、出くわすことは少ない存在だったのだ――シャナイゼの西側では。
しかし、リヴィアデールの東西を分断する沙漠の東にあるシャナイゼ地方は、そうではなかった。
兎型の魔物の駆ける先には、別の青年がいた。長い黒髪を首のあたりで束ね、灰色のローブを着ている。槍を目の前で掲げるように持っている。兎の足元に赤い魔法陣が現れた。魔術師なのだ。シャナイゼは、魔術師たちの土地として知られている。
青年の魔法陣から炎が現れ、兎の身体を炎の渦が取り巻いた。悲鳴と肉の焦げる臭い。やがて、そこに黒い塊が転がった。
「危なかったなー、兄ちゃん」
茶髪の少年が、剣をしまいながら笑顔でマルセルに近寄る。戦いがあったばかりとは思えない表情に、マルセルは密かに戦慄した。だが、一人で草原を歩いていたマルセルを魔物の襲撃から助けてくれたのは事実で、恐怖を押し殺して礼を言う。
彼らは、〈木の塔〉の者だと名乗った。〈木の塔〉といえば魔術研究の機関だが、同時に自警団のようなこともやっているらしい。彼らはその小隊で、茶髪の少年――グラムと名乗った――が、リーダーだという。
メンバーは、他にも二人。炎を使った青年と、その彼と瓜二つの娘。双子の兄妹だという。名前は、リグとリズ。
マルセルは、彼らからの質問に応じて身元を明かした。リヴィアデールの南西部出身で、国内をあちこち旅してきたこと。そしてシャナイゼに足を踏み入れたこと。
「週次でツアーがあったはずだぞ。なんで一緒に来なかったんだよ」
リグが眉を顰める。〝ツアー〟とは、要はシャナイゼと他地域を行き来する旅行者の集団で、それにはいつも〈木の塔〉の護衛が付いているらしい。魔物が多いこの土地で戦えない者でもきちんと行き来できるよう、そういうものが作られているとか。
「知らなかったし……自分の身は自分で守れると、思っていたから」
旅をしているといろんな危険がある。野生動物、野盗。彼らから身を守るため、マルセルも剣を持っていた。
「甘い。他所の地域と一緒にしちゃ駄目」
リズがぴしゃりと説教する。マルセルも、それはひどく実感した。その辺を歩いているだけで、あんな魔物にたやすく遭遇するだなんて、聞いていなかった。
これも何かの縁だ、とグラムたちはマルセルの護衛を申し出てくれた。死にたくなかったので、有難く受けることにする。
「割と遅くなっちゃったな。近くの村に行くか」
空はいつの間にか色を薄くして白っぽくなっており、東の端からは闇が迫っていた。夜になる前にシャナイゼの街まで行くのは難しい、とグラムは言う。
黄昏が過ぎ、宵の口になった頃、マルセルたちはその村に辿り着いた。マルセルはまた慄いた。村の外周を囲う石積みの壁。切った丸太をバツ字に組んで、先端を尖らせ、並べた防護柵が、村の入口に設置してあるのだ。魔物対策と知る。しかし、魔物がそれだけ多いのか。
「よく、こんなところで暮らしていけますね」
ああいうものが必要だということは、人間の集落であろうともそれだけの危険があるということで。この地方の人々は、毎日魔物に怯えながら暮らしているのだ。生きた心地がしないのではないか、とマルセルは思う。
「んー? でも、これが当たり前だからなぁ」
グラムは呑気に返す。本当になんとも思っていないのだ。
マルセルは、彼らを哀れだと思った。西ではもっと気楽に暮らしているのに。これほど大変な生活が、当たり前だなんて。
防護柵の間を縫うようにして、村に入る。円状の石壁の中に、石積みの家が無造作にぽつぽつと点在していた。道らしい道もなく、街灯もなく、家から漏れる灯りのみが人の営みを主張していた。
グラムたちは、入口から迷わず右に折れ、一番手近な家に入っていった。村中を回って観察したわけではないが、他の家よりも大きな家のように、マルセルには思えた。
先頭を行くグラムは、何の躊躇いもなく木を削りだした扉を開けた。まるで親戚の家に遊びに来たかのような遠慮のなさ。
「ばんわー。今日って泊まれますー?」
入口の目の前にカウンターがあって、その左横に、奥に行く扉がある。そして、マルセルたちの右手側にも扉があった。こちらは両開きになっていて、向こうの部屋が大きめであることが察せられる。
返事はすぐに返ってきた。不躾な訪問にも腹を立てた様子もなく、軽快な足音が床を叩く。
「あらー、グラムちゃん。また来たの?」
カウンター真横の扉から現れたのは、恰幅の好い中年の婦人だった。よく日に焼けてそばかすの浮いた肌。太い髪は引っ詰められ、黒い眼は魔術の灯の中でも力強く光っている。力強い印象の女性だった。
グラムはその婦人に、懐いた犬のように近づいていく。
「旅人さん拾っちゃった。あと、〈牙兎〉が居たから倒しといた!」
「ありがとねぇ。……お肉はないの?」
「ごめん、リグが黒ずみにしちゃった」
「俺の所為かよ」
「リグちゃん、火加減はお料理の基本よ」
「戦ってたんですけどねぇ」
〈木の塔〉御用達の宿屋のようなものなのだ、と間の抜けた会話の傍らで、リズが教えてくれた。かの婦人は別に宿を経営しているわけではないが、今回のようなときや有事のときに、こうして部屋を提供してくれるらしい。臨時の下宿みたいなものだとか。
彼らは何度もこの村に立ち寄っており、その度に彼女の世話になっているそうだ。だから、こう軽口を言い合う仲になっている。
右手の部屋に案内され、ささやかながら食事もいただいたが、料金は要らないとのことだった。
「普段は取るんだけどねぇ。今回は、〈塔〉の人と一緒だから」
〈木の塔〉の人たちからは、金を取らないとか。それは、〈木の塔〉の運営費に住民たちの税の一部が当てられているからだ、とリズから教えられた。
「……なんか、いろいろ複雑ですね」
部屋は広く、寝台が四つあった。それと、食事を取った大きめの卓。宿屋のように部屋が複数あるわけでなく、こうしてみな一つの部屋に押し込められる。……女性は大変そうだ、とリズを見て思う。彼女自身は気にした様子もなく、灰色のローブを脱いで、シャツとズボン姿で寝台のうえに胡座をかいているが。
「こんな場所でもね、いろいろ工夫して暮らしてるのよ」
膝に肘を乗せた頬杖で、ニヤつきながら言われる。マルセルは鼻白んだ。村に入るときの一言を気にされていたのか。
「長いことここで生きてきたからこそ、ここなりの文化ってものがある。貴方はそれを読み取れるかな? 旅人さん」




