第48話「鳩、帰る——山形城〜龍門寺、往復成功」(前半)
しばらくは本業多忙のため、どうしても投稿間隔が空いてしまいがちです。
なんとか、マイペースでも書き続けていくつもりですので、今後ともよろしくお願いします。
夏の終わりの空は、まだ夜の藍色をこれでもかと引きずっていた。
山形城の鍛錬場では、乾いた木刀の音がパァン!と鼓膜を叩いていた。
私——最上駒は、薙刀の柄をギュッと握り直し、ふぅ、と限界まで溜めた息を吐き出した。
天正十七年(一五八九年)、夏の終わり。この早朝ブラック稽古は、もう半年以上続いている。
「姫様、今日も見事な手並みにございます」
師範役の老武士——弥右衛門が、満足げに白ひげをフサフサ揺らした。さっきまでの馬術の稽古への、最大級の評価だ。
(——前世で鍛えた体幹が、この身体と噛み合っているんだよね)
陸上競技の選手だった前世の私は、体の軸を作ることに人一倍うるさかった。その感覚が、馬上での重心コントロールにそのまま活きている。馬術は、思ったより早く上達できた。
薙刀はまだ「無難にこなす」程度だが、型だけは崩さない。
(——重心の取り方がまだ甘い。でも、型を崩したらそこで試合終了! そこだけは絶対死守)
「……姫様は、真に筋がよろしい」
弥右衛門がもう一度言った。
(褒めてくれるのは嬉しいんだけど、今は別のことが気になって仕方がないんだよね……)
私の視線は、鍛錬場の隅へと向いていた。
七歳の弟、竹丸が、薙刀を持ったまま固まっていた。
正確には、固まっているのではない——型が崩れているのに、崩れていることに本人が気づいていないのだ。
腰が高い。足の幅が狭い。肘が上がっている。三つ同時に間違えるのは、ある意味で逆に才能かもしれない。
「若様、もう少し腰を落とされませ……」
弥右衛門が優しく声をかける。竹丸が「ふんっ」と腰を落とす。——けれど、三秒後には元に戻る。
(……あれ、戻った。また秒で戻った。あんたの腰は形状記憶ゴムか?)
「竹丸」
私は静かに言った。
「もう一度」
竹丸が、ぎょっとしてこちらを向いた。七歳の丸い目に、「げ、また言われた」という感情が正直に浮かんでいる。
「……姉上、もう疲れました」
「分かっています」
私は薙刀を脇に置き、お疲れモードの可愛い弟の正面へ、すたすたと歩み寄った。
「疲れても型を崩さないのが稽古です。もう一度」
「でも……」
「竹丸」
声のトーンを限界まで一段、落とした。
竹丸が「ひぇっ」としぶしぶ構え直す。お、今度は少しだけ腰が低い。偉い偉い。
(——厳しいかもしれない。でも、この子が将来、本当の戦場に出る可能性はゼロじゃない。武家の男子として生まれた以上、それは避けられない現実なんだから。今、ここで甘やかすことは、この子の未来の命を削ることになる。それだけは、絶対にさせない)
前世の私は、史学科の学生だった。戦国時代の合戦がどれほど苛烈なものか、文字の上では知っていた。でも、この時代に生きてみて初めて分かったのだ。『知っている』ということと、『覚悟している』ということは、全く違うのだと。
だから、私は厳しくする。
この子への愛情があるからこそ、厳しくするんだ。
竹丸が、もう一度しっかりと型を取った。今度は——少しだけ、さっきよりも形になっている。
「……よし」
私が短く言うと、竹丸の顔にぱっと明るい光が差した。
その時、ふと誰かの視線を感じて振り返った。
廊下の奥、薄暗い影の中に人影があった。
妙姫——お母様だ。
朝の薄明かりの中、淡い色の小袖を纏った母が、静かにこちらを見ていた。その表情は、遠すぎて細かくは読めない。でも——娘の凛々しさへの誇りと、息子の不甲斐なさへの苦笑いが、複雑に混じり合っているような、そんな気がした。
(——お母様。見ていてくださったのですね)
私はあえて気づかないふりを通し、そのまま稽古の声を張り上げた。
◇ ◇ ◇
稽古が終わったのは、朝の光が城の屋根をすっかり金色に染めた頃だった。
汗を拭いながら廊下へ戻ると、お母様が待っていてくれた。
それを見た竹丸が、真っ先に駆け寄る。
「母上! ぼく、今日も頑張りました!」
最上家の嫡男らしく、竹丸は最近「父上」「母上」と呼ぶようになった。七歳にして、少し背伸びをしているのがわかる。
(——微笑ましいなぁ)
私は内心でそっと笑った。けれど、すぐに大変なことに気づく。
(——ちょっと待って。私は竹丸より一歳年上の八歳なのに、まだ『お父様』『お母様』呼びのままだ。弟に先を越されてた……。いや、別に競争じゃないけど、そろそろ私も改めなきゃいけないのかな。武家の娘として、いつまでも幼い呼び方のままっていうのもマズいよね……)
お母様が、竹丸の頭をそっと愛おしそうに撫でた。
「よく頑張りましたね」
「……でも、姉上が厳しいのです」
竹丸が、ちらりと私の方を見る。するとお母様が「そうですね」と楽しそうに笑った。
(——お母様、そこ笑うところ!?)
心の中で盛大に抗議しつつ、表の顔は八歳の愛らしいお姫様のまま、にっこりと微笑む。
お母様が、今度は私を見た。
「駒、あなたは——お父様に似ていますね」
私の動きが、完全にフリーズした。(なんですと!?)
「……え」
「お父様も、若い頃は家臣に対して『もう一度』と何度でも言い続けたそうです。諦めることを知らない人でした。今も、そうですけれど」
お母様の声は穏やかで、静かで――どこか遠くの思い出を見るような響きがあった。
(——お父様に似ている? それって褒め言葉なの? それとも呆れられているの?)
最上義光は確かに偉大な武将だ。家臣を何度も「もう一度」と言い続けて叩き上げた鬼でもある。けれど同時に、娘の前では三割増しでデレる、ただの親バカでもある。
(どっちの意味で言っているんだろう、お母様……)
——いや、そもそも。
(——「お父様」「お母様」。…あ、また脳内で言っちゃったよ。竹丸はもう「父上」「母上」なのに)
ちらりと弟を見る。竹丸は今も「母上、ぼくの薙刀、少し上手くなりましたか」と得意げに話しかけている。その横顔は、どこか誇らしげで、背筋がいつもより少しだけ伸びているような気がした。
(——あの子は七歳にして、もう武家の男子として振る舞おうとしている。なのに、八歳の私は……まだ「お父様」「お母様」のまま。前世の感覚が抜けないせいもあるけれど、いい加減、ちゃんと改めないと。この時代を最上駒姫として生き抜くためにも、「父上」「母上」と呼べるようになることは意外と外せないステップなのかも?)
心の中で、静かに決意する。
(長年の癖だ、今日すぐに変えるのは難しいかもしれない。でも――少しずつ、ね。)
そんな私の葛藤をよそに、お母様がふっと表情を和らげた。
「鳩の訓練も、今日が大事な日なのでしょう」
「はい、お母様」
(——また言っちゃった。……まあ、いい。仕切り直しだ。今日は鳩のことに集中しよう)
お母様が「うまくいくといいですね」と言って、竹丸の手を引いて歩き出す。
そして——振り返りざまに、さらりと言い残した。
「竹丸も、手伝いに行きなさい。あなたの目は、お父様よりずっとよいのだから」
竹丸が、弾かれたように顔を上げた。
「……ぼくも行っていいのですか」
さっきまでの疲れ顔が、嘘みたいに消えている。
(——お母様は、竹丸の『目の良さ』を見抜いていたんだ。さすがだな)
妙姫は何も答えず、ただ微笑んで廊下の奥へと歩いていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
(——お父様は「やってみろ」って勇気をくれる人。でもお母様は——「あなたにはこれができる」って自信をくれる人。どちらも、今の私に一番必要な言葉なんだ)
そして、もう一つ。
(——「父上」「母上」。……よし、次こそはちゃんと言おう!)
◇ ◇ ◇
夕刻、私は竹丸を連れて鷹小屋を訪れた。
城の北の端。獣臭と羽毛の混じった、独特の匂いが鼻をつく。
竹丸が入り口でぴたりと足を止めた。
「……でっかい」
止まり木に並んだ数羽の鷹を見て、竹丸が固まっている。
「若様、鷹は目を合わせなければ大丈夫です」
久蔵が、静かに言った。低く、無駄のない声だ。竹丸がおそるおそる視線を外す。鷹の一羽が、興味なさそうに顔を背けた。
「竹丸」
私は弟の肩に手を置いた。
「明日の朝、鳩が帰ってきたら——あなたに鳩検分役をしてほしいのです」
「ぼくが?」
「ええ。あなたの目は鋭い。遠くから飛んでくる鳩を、きっと誰よりも早く見つけられるはずです」
竹丸の小さな背筋が、すっと伸びた。
久蔵が、明日の段取りを淡々と確認する。
「夜明け直後に放鳩します。囮の四羽と、本命の一羽、合わせて五羽。龍門寺まで十五分から二十分。返しの鳩が戻るまで、合わせて一時間以内の計算です」
「はい。龍門寺の久兵衛殿には、昨日のうちに文を送りました。鳩が届いたら、すぐに返しの鳩を放すよう頼んであります」
久蔵が静かに頷く。
すると、傍らの小春が、おずおずと口を開いた。
「姫様、今日はちゃんとお休みになれますか」
(——正直に言えば、眠れる自信がない。でも——夜明けには縁側に座っている。それだけは確かだ)
「大丈夫よ」
答えながら、私は久蔵の背中を見つめた。
明日放つ鳩たちを、一羽ずつ愛おしむように確認している。その所作には、一切の無駄がない。
(——久蔵は今夜も、こうして鳩の様子を確認し続けるんだろう。この人の誠実さが、この計画を支えてくれている)
「姉上」
竹丸が、私の袖をそっと引いた。
「ぼく、ちゃんとやります」
見上げてくる七歳の瞳には、強い覚悟が宿っていた。
「分かっています」
私は、その小さな頭にそっと手を置いた。
夏の終わりの夕風が、鷹小屋の軒を静かに揺らして通り抜けていった。




