第48話「鳩、帰る——山形城〜龍門寺、往復成功」(後半)
夜明けと同時に、縁側に出た。
空はまだ薄暗く、東の山の稜線だけが、ほんのりと白み始めていた。
隣には、すでに竹丸がいた。
昨夜はちゃんと眠れたのだろう。七歳の顔に眠気はなく、むしろその瞳はいつもより鋭く光っていた。
(——本当にお母様が言っていた通りだ。この子の目は、凄くいいんだ)
久蔵が、静かに鳩を放った。
囮の四羽と、本命の一羽。合わせて五羽の白と灰の影が、夜明けの空へと吸い込まれていく。
それを見送ったあとはただ、待つだけだ。
竹丸が縁側の端に立ち、身じろぎもせず空を見上げている。稽古の時とはまるで別人のような、静かな集中だった。
(——薙刀の型はあんなに崩れるのに、こういう時は崩れない。人間って、面白いな)
時間が経つ。
小春が「姫様、お茶でも……」と言いかけて、私の顔を見て黙った。正解だよ。今は何も要らない。
さらに時間が経つ。
久蔵が、微動だにせず立っている。
竹丸が、微動だにせず立っている。
私も、微動だにせず座っている。
三人で、ただ空を凝視していた。
そして——。
「姉上!」
竹丸の声が、朝の静寂を突き破った。
「来た。あっちから——来た!」
細い指が、東の空の一点を指す。
私が目を凝らすと——確かに、小さな影があった。
それは迷いなく、一直線に飛んでくる。
ふらつかず。迷わず。まるで糸で引かれているかのように、真っすぐに、真っすぐに。
白と灰の斑模様の鳩が、軒下へと降り立った。
ちょこんと座って、ぽっぽと一鳴きする。
まるで、何事もなかったかのように。
「ぼくが受け取っていいですか」
竹丸が振り返った。
「どうぞ」
弟が、恐る恐る、しかし丁寧に、鳩を両手で包んだ。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
「……あったかい」
小さな、掠れた声だった。
弟の呟きを聞きながら、私はただ、その白と灰の背をそっと見つめていた。
(——そうだ。鳩は生き物だ。文を運ぶだけの、ただのからくり細工じゃない。ちゃんと生きていて、あったかくて、そして役目をこなして帰ってきた)
私は鳩の足元を確認した。
小さな文は、ちゃんと結ばれたままだ。
「——帰ってきた。ホントに、ちゃんと帰ってきた……!」
声に出していたのか、心の中で言っていたのか、自分でも分からなかった。
「姫様……」
久蔵の声が、かすかに震えていた。
「成功、いたしました」
いつも低く無駄のない職人肌の声が、今日だけは、少し違う響きを持っていた。
「姫様、鳩が……! 文が……!」
小春が、今にも泣きそうな顔で手を口に当てている。
竹丸が、両手の中の鳩をまじまじと見つめたまま言った。
「姉上、これが——伝書鳩ですか」
「そうです」
「……すごい」
文を解いて開く。龍門寺の久兵衛が書いた、短い一文。
「確かに受け取りました」
たったそれだけの、素っ気ない文字。
でも――この短い文字の価値は、万両の金にも勝る。
(——これでいける。本気で実用化できる! 農業改革が『民を守る』内政の手なら、伝書鳩は『政治と軍事を守る』情報戦の手だ。両方が揃って初めて、奥羽で並び立つ者のない存在になれる。小田原が来ようが、政宗従兄様が例の遅参をやらかしそうになろうが、この鳩たちが、その日のうちに最速で報せを運んでくれる!)
「久蔵」
私はパッと振り返った。
「ありがとうございます。久蔵の知恵がなかったら、絶対に無理でした!」
久蔵が、短く首を振った。
「……いえ」
ほんの少しだけ口元を緩めて、彼は言った。
「姫様が、諦めなかったからです」
◇ ◇ ◇
その報告が城内を駆け巡るのに、一刻もかからなかった。
お父様がすっ飛んできた。
鮭延殿もついてきた。
そして——もう一人。
(——氏家殿が来てくれた。お元気そうで何よりだなぁ)
氏家守棟。最上家が誇る知将だ。お父様の右腕として長年苦楽を共にしてきた老将で、五十を超えた今でもその佇まいは完璧そのもの。その鋭い目が、軒下で毛づくろいをする鳩をじっと見据えている。
お父様が縁側に立ち、まじまじと鳩を見た。
「……本当に、自力で戻ってきたというのか」
珍しく、お父様が目を丸くしている。普段の狸……じゃなくて「羽州の狐」の顔はどこへやら、今日だけは、ただただ娘の快挙に圧倒される父親の顔だ。
「はい。龍門寺まで無事に届いて、返しの鳩もこの通り。往復実験、大成功です!」
お父様が言葉を失って絶句していた。
何か言おうとするものの、その先が出てこない。
すると、鮭延殿がしみじみとした声で言った。
「……姫様は、いつも成し遂げてしまわれる」
その一言が、朝の静けさの中に心地よく響いた。
そんな感動の空気を破るように、氏家殿がお父様を横目で見て、面白そうに口元を緩めた。
「……殿、もしや言葉を失っておいでですか?」
お父様が慌てて噛みつく。
「出、出ておるわ!」
「ほう? では、何と仰るのです?」
「……」
再び、お見事な沈黙。
(——やっぱり出ないじゃん!)
心の中で盛大に突っ込みを入れつつも、表の顔は八歳の淑やかなお姫様のまま、私はにっこりと完璧な美少女スマイルを浮かべるのだった。
氏家殿が、今度は私に向き直って口を開いた。
「……姫様、見事にございます」
低く、短く、無駄な飾り気の一切ない言葉。
けれど、その一言には、最上家を支え続けてきた大重臣としての、深い信頼と誇りが静かに満ちていた。
(——この人も、私の歩みをずっと見ていてくれた。言葉数は少なくても、だからこそこの一言は何よりも重い!)
「父上!」
竹丸が、お父様に向かってタタタッと駆け寄った。
「ぼくも手伝いました! ぼくが一番早く鳩を見つけたのです!」
(——「父上」。また自然に言えている。……いいな、あの子)
私は内心でもう一度、弟の呼び方を聞いていた。「父上」。短くて、凛としていて、武家の子らしい響きがある。私の「お父様」とは、確かに違う。どちらが良い悪いではないけれど——この時代を生きる最上の姫として、いつかは自分もそう呼べるようになるべきなのだろう。
お父様が、少し驚いたような顔をした。
「……そうか、竹丸もやったか」
お父様の大きな手が、竹丸の頭にそっと置かれた。柔らかな手つきだ。
「父上、ぼくの目は——母上が、父上よりずっとよいと言っていました!」
お父様の眉が、ぴくりと跳ねた。
「……妙がそんなことを申したのか?」
「はい!」
お父様が「……そうか」と呟き、今度は少し嬉しそうに目元を緩めた。
その温かい笑顔を見つめながら、私は思う。
(——よくやったね、竹丸。剣の稽古では泣いてばかりのあなただけど、今日は間違いなく、この大成功の立役者の一人だよ!)
◇ ◇ ◇
昼になった。
大成功の心地よい余韻が、まだ城の空気にふわふわと漂っていた。
だがしかし、私はその余韻を容赦なくぶった切って、久蔵を呼び出した。
「久蔵、さっそく次の目標の確認をします」
「……もう次ですか」
久蔵が、わずかに呆れた顔をした。この無骨な男がそんな顔をするのは珍しい。
「山形城から米沢まで、約五里。龍門寺の倍の距離になります」
「……承知しました。米沢へ至る道の縄張り図を、新たに作ります」
小春が、おずおずと言った。
「姫様、少しは今の喜びを噛みしめてから、次に行きませんか!?」
「ちゃんと喜んでいますよ?」
「……とても、そうは見えませんが」
(——いや、喜んでるよ! 脳内で狂喜乱舞の快哉を叫んでるよ! ただね、私には立ち止まっている暇がないだけなの!)
心の中で叫びながら、表の顔は穏やかなままだ。
「引き続き、よろしくお願いしますね」
久蔵が深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
夜、居室に戻った私は、燭台の前に座って筆を取った。
政宗従兄様への鬱憤晴らしの……もとい、報告の書状だ。
「かねてより従兄様が『子供の夢物語』と鼻でお笑いになられた、小次郎様と私が提案した伝書鳩の件、本日、山形城と龍門寺の往復に見事成功いたしました。従兄様が幻と切り捨てたものを、私はこうして確かに形にいたしました。今頃驚きで言葉を失っておいででしょうか。これに懲りたら、私の先見の明を二度とお疑いになられぬことです。」
筆が、紙の上を滑る。
(——あの従兄様の『子供の夢想だ』という一言が、私の導火線に火をつけたんだよね。ある意味では感謝しなきゃね。本当に「ある意味」でだけ、だけど!)
「次は山形城から米沢への往復、すなわち従兄様のお膝元を目指します。無事に成功した暁には、従兄様の目の前で実演をお見せいたします。その折には、かつて一緒に笑われた小次郎様にも、一言でよいので『見くびってすまなかった』とお詫びを申されてくださいませ。最上と伊達の空を鳩で繋ぐ。これこそが、いずれ来る大乱を生き抜くための、奥羽大同盟の『最初の糸』にございます。かしこ」
筆を置いて、燭台の炎を見つめた。
書状を封じながら、ふと——竹丸の顔が頭をよぎった。
両手で鳩を包んで、「……あったかい」と言っていた、あの顔。
(——あの子も、少しずつ、自分の役割を見つけていくんだろう。稽古では「もう一度」と言い続けるしかない。でも——今日みたいな瞬間が、きっとあの子を育てていくだろう)
燭台の炎が、ゆらりと揺れた。
ふと、今日一日の竹丸の声が、頭の中で繰り返された。
「母上!」「父上!」
(——そうだ。あの子は今日、何度もそう呼んでいた。自然に、当たり前のように)
私は筆を持ち直し、もう一枚、白紙を引き出した。
何かを書くわけではない。ただ——その紙の上に、静かに二文字を書いてみた。
「父上」
墨が、紙に染みていく。
(——うん、響きは悪くない。……次に呼ぶ時は、ちゃんと言葉にしてみようかな)
夏の終わりの夜風は、私の火照った体に、もう少しだけ涼しかった。
戦国時代の武家では、通常、男子は七歳前後から本格的な武芸の稽古を始め、十三〜十五歳頃に元服を迎えます。
元服とは単なる成人の儀式ではなく、「一人の武士として主君や家に仕える存在になる」という、社会的な立場の転換点でした。
親の呼び方も、その意識の変化と連動していました。
幼い頃の「お父様」「お母様」という柔らかい呼び方から、「父上」「母上」へと改まっていくのは、武家の子が「家の一員としての自覚」を持ち始めたことの、小さくも確かなしるしと言えます。




