第47話「鳩は迷う——試行錯誤の夏」(前半)
「やってみろ」……お父様からその一言を勝ち取った翌朝、私は鮭延殿の元へと駆け込んでいた。
「伝書鳩の訓練を任せられる人物を探してほしいのです!」
私の鼻息の荒さに対して、鮭延殿はすぐには答えなかった。がっしりと腕を組み、天井を睨むようにして考え込んでいる。この人の沈黙は、思考放棄ではなくそれだけ本気で向き合ってくれている証だ。これまでの付き合いの中で、適当な返事をされた記憶が一度もない。
「……城の鷹匠である久蔵というのはいかがでしょう。鳩の習性にも詳しいはずです」 ぽつりと言われた提案に、私は一瞬、思考を止めた。
(ちょっと待って。鷹匠?)
大急ぎで頭の中の情報を整理する。
(鷹匠といえば、鳩の天敵である鷹を扱う人だ。一見、完全に真逆のキャスティングに思えるけれど……。いや、違う。鷹の習性を知り尽くしているということは、その獲物である鳩の動きにも間違いなく詳しいはず。おまけに、鷹から鳩を守る方法だって誰より知っているかもしれない。天敵を知る者こそが、最強の防衛策を編み出せる……!)
なんという逆転の発想だろうか。
「……ありがとうございます、鮭延殿。素晴らしい人選です。さっそく会いに行ってまいります!」
◇ ◇ ◇
城の北の端に、鷹小屋はあった。
小春を連れて近づくと、獣臭と羽毛の混じった独特の匂いが鼻腔をくすぐる。中に入ると、薄暗い空間の中に数羽の鷹が止まり木に並んでいた。どれも息を呑むほど目が鋭い。私を値踏みするように、じっと動かず見下ろしてくる。
(……なんだか、もの凄く品定めされている気がするんだけど)
その鷹たちの世話をしていた男が、こちらを向いた。
年齢は四十がらみだろうか。無駄のない引き締まった体つきをしている。顔の彫りが深く、目元に細かい皺が刻まれているが――その眼光の鋭さは、そこにいる鷹たちと完全に同質だった。長年、猛禽類と命がけで向き合ってきた者だけが持つ目だ。
「久蔵か」
「はい、姫様」
久蔵は手を止め、深く頭を下げた。声は低く、無駄がない。
「鳩に、文を運ばせたい。その訓練を手伝ってほしいのです」
単刀直入に用件を伝えると、久蔵の動きがぴたりと固まった。
数秒の沈黙が流れる。
「……鳩、でございますか」
「そうです」
久蔵がゆっくりと顔を上げた。その表情は、私の突飛な発言に対する困惑を、職人のプライドで丁寧に押し込めようとしているものだった。
「鳩は……鷹にとって格好の獲物にございますぞ、姫様」
私は、ここが勝負どころだと思った。
「だからこそ、あなたの知恵が必要なのです」
久蔵の眉が、わずかに上がった。
「鷹の動きを知るあなたであれば、鷹から鳩を守る方法も知っているでしょう。私の理論と、あなたの経験を合わせれば——必ず成功するはずです」
また、沈黙が小屋を満たす。
薄暗い鷹部屋の中で、一羽の鷹がじっと私を見ていた。まるで「この小娘、本気で言っているのか?」と、主人の代わりに問い詰めているかのようだった。
久蔵が、深く息を吸った。
「……やったことはありませんが」
「はい」
「……ですが、やってみましょう」
(——よし!)
心の中で快哉を叫び、全力でガッツポーズを決める。だが、表の顔は八歳の淑やかなお姫様のままだ。私は優雅に、にっこりと微笑んでみせた。
「ありがとうございます、久蔵」
安堵したのも束の間、後ろからおずおずと私の袖を引く者がいた。侍女の小春だ。
「姫様……本当にこの方で大丈夫ですか」
不安を隠せない小声が耳に届く。無理もない。鳩の天敵を操る男に訓練を任せるのだから。
(——大丈夫。理論は私が持っている。現場の知恵は、この人から学ぶ。それが、一番確実な道だ)
私の知識と、彼の職人としての経験。この二つが噛み合えば、失敗する要素などどこにもないはずだ。
◇ ◇ ◇
そして、現実が牙を剥きだした。
訓練初日。城の蔵の裏まで連れて行って放した記念すべき第一号の鳩は――戻ってこなかった。
夕刻になっても、翌朝になっても、鳥小屋はからっぽのままである。
「姫様、どうにも鳩というのは……気まぐれな生き物でして」
久蔵が申し訳なさそうに眉を下げた。
「次の鳩を用意してください」
私は即座に答えた。絶対に諦めません、という強い意志を込めて。
二羽目。今度は戻ってきた。しかし——足を見ると、文を結んでいた紐だけが、ぷらりとぶら下がっていた。文はどこかへ消えていた。
(鳩の帰巣本能は本物だ。でも、文の固定が甘すぎた)
三羽目。城外の野原まで連れて行って放すと、高く高く舞い上がり――そのまま、はるか彼方へと飛んでいってしまった。
(……あれ? もしかして、野生に帰られました?)
四羽目。今度は最悪だった。野生の鷹に襲われたのだ。
「姫様、また一羽……」
久蔵が、静かに報告する。その声には、鷹匠としての複雑な感情が滲んでいた。自分が長年愛着を持ってきた鷹に、自分が今育てようとしている鳩が仕留められた――その皮肉を、久蔵は黙って受け止めていた。
(——前世の知識だけでは、全然足りない!)
私は、その事実を静かに、そして痛烈に噛み締めた。
(——帰巣本能があることは分かっている。でも——どうやって確実に帰らせるか。鷹をどう避けるか。足への文の適切な結び方は。飛ばす距離の伸ばし方は。全部、実際にやってみないと分からないことだらけだ。本で読んだことと、実際にやることは、全然違う)
「姫様、鳩が……また」
小春が、今にも泣きそうな顔で私の袖を引く。
「大丈夫。これくらいの失敗は想定内です」
「……姫様、何羽失ったら想定外になりますか?」
「……それは、考えないようにしています」
小春が、何とも言えない複雑な顔をした。
そこへ、廊下からお父様の朗々とした声が響いた。
「駒、鳩の調子はどうじゃ」
お父様が、執務の合間に様子を見に来たらしい。がっしりと腕を組んで、私の顔を覗き込んできた。威厳のある強面の顔が、娘の前だけ三割ほどデレ……コホン、柔らかくなっている。
「……三羽、行方不明です」
「……三羽も?」
「一羽は鷹に。一羽は迷子に。一羽は……どこかに気に入った場所を見つけたようです」
お父様が、しばらく沈黙した。
「……で、今は何羽残っておる」
「九羽です」
「……まあ良い。九羽いれば十分ではないか」
傍らに控えていた鮭延殿が「殿……」と言いかけて、黙った。
何から突っ込めばいいか分からなくなった顔だった。
(お父様。九羽いれば十分ということではなくて、その九羽もまだ一度も帰還に成功していないのですけれど……)
表の顔は、愛らしいお姫様のまま、にっこりと微笑む。
「はい、お父様。引き続き頑張ります」
お父様が「そうか」とだけ言って、どこか満足げに、安心したような顔で去っていった。




