第46話「伝書鳩——夢想を、計画に変える日。『政宗が笑ったなら、やってみろ』」(後半)
お父様の執務室は、いつも通りだった。
うずたかく積まれた書状の山、生々しい戦場の地図、そして部屋全体に満ちる謎の威圧感。
「お父様、少々よろしいでしょうか」
私が声をかけると、お父様は書類から顔を上げた。
私と目が合った瞬間、その厳つい目元がふにゃりと緩む。これが「羽州の狐」の顔かと問われたら、誰も頷かないだろう。
「おお、駒か。どうしたのだ?」
「お父様、以前から考えていたことがあるのです」
「以前から?」
お父様の眉が、ぴくりと跳ね上がった。傍らに控えていた鮭延秀綱が、気配を消したまま静かにこちらを向く。
「はい」
私は姿勢を正して、続けた。
「先だっての演習の日、伊達の小次郎様とお話ししたのです。後になって、小次郎様が政宗従兄様にその件を提案してくださったと、文で知りまして……」
お父様の表情が、微妙に動いた。
「……小次郎が、だと?」
声のトーンが一気に低くなる。
ハイ、釣れた。目の奥に『伊達に負けてたまるか』という対抗心がメラメラと灯り始めている。私はそれを横目で確認しながら、本題を切り出した。
「鳩を使って、文を運べないでしょうか?」
一瞬、部屋が静まり返る。
お父様が、私をじっと見た。
「……鳩で、文を運ぶ?」
「はい。鳩には強い帰巣本能があります。生まれ育った場所に必ず戻ろうとする習性です。これを利用して、あらかじめ訓練した鳩に文を結びつけて飛ばせば——早馬の三倍の速さで情報を届けられます」
「……理屈はわかった。だが、その鳥が本当に戻ってくるという保証はあるのか?」
お父様が、鋭い目で問い返した。さすがだ。理屈だけでは動かない。
「はい。実際に試してみました」
「な、何だと……?」
「城の軒下に巣を作っていた鳩を捕まえて、城から半刻ほど離れた野原まで連れて行って放しました。結果、翌朝には同じ鳩が同じ場所に戻っていました。それを三日間、繰り返し確認しています」
お父様が、しばらく黙った。
鮭延が、静かに口を開いた。
「……姫様、それは一体いつの間に?」
「龍門寺から戻った翌朝から、三日間です」
鮭延の目が、かすかに細くなった。驚きを抑えているのが、よく分かる。
(——鮭延殿、「このお転婆姫、また勝手に何かやってたな」と思っているでしょう。大正解です)
お父様が、ふっと深い息を吐いた。
「……鳩とは食べるものではないのか」
(——お父様ァ!!!)
私は脳内で盛大に絶叫した。
(——三日間の実験の話を聞いて、最初に出てくるのがそれ!?)
表の顔は、八歳の愛らしいお姫様のまま、にっこりと微笑む。
「お父様、鳩は食べません。今回は」
「……今回は?」
「通信訓練に使う鳩は、絶対に食べません」
「……そうか。食べないのか」
お父様が、少し残念そうな顔をした。本当に少し残念そうな顔をした。
その時、後ろにいた小春がおずおずと口を開いた。
「姫様、鳩は食べるものでは……」
「小春まで同じこと言わないの!」
即座にシャットアウト。小春はぴしゃりと口を閉じた。
それを見たお父様が、かすかに口元を緩める。笑いを堪えているのが、丸分かりだ。
「……ふむ、続けよ」
「はい」
私はコホンと咳払いをして仕切り直した。
「早馬で半日かかる距離を、鳩なら一、二時間で飛べます。山形から米沢なら、ものの三十分。内政改革の情報伝達にも使えますし——何より、これからの政治的な動きに備えるためにも、情報を速く届ける手段が必要です」
お父様の目が、少しだけ真面目なものに変わった。
「政治的な動き、とは」
「小田原の件です。もし豊臣が動く時、最上と伊達の間で情報の共有が遅れれば、対応が後手に回ります。伝書鳩があれば、その日のうちに連絡が取れます」
お父様が、腕を組んだ。
私は、ここが勝負どころだと思って、最後の一手を切った。
「政宗従兄様には笑われたそうですが、私はできると思います。実際に、鳩が戻ってくることは確かめました」
一瞬の沈黙。
そして——お父様の目が、カッと見開かれた。
「——政宗が笑っただと?」
「はい。『子供の夢想だ』と」
「……」
お父様が、すっと背筋を伸ばした。腕を組んだまま、目の奥に炎が灯っている。
「よし、ならば今すぐやってみよ!」
低く、はっきりとした声だった。
「政宗が鼻で笑った計画を、我が娘の駒が成功させる。……これは最高に愉快な見ものだな!」
(お父様の動機があまりにも不純すぎる……!)
私は心の内で苦笑した。
(——三日間の実証実験の成果より「政宗が笑った」の一言の方が効いてるじゃない! でも……最高権力者が後ろ盾になってくれるなら、何でもいいや!!)
私は表向き、ぺこりと上品にお辞儀をする。
「ありがとうございます、お父様」
その時、鮭延が静かに一歩前に出た。
「殿、動機はともかく——姫様のお考えは、非常に理にかなっています」
「わかっておるわ!」
お父様が即座に言い返した。鮭延が、かすかに目元を和らげる。この二人のやり取りは、何度見ても絶妙すぎて飽きない。
◇ ◇ ◇
しかし、鮭延殿の仕事はそこで終わらなかった。
「姫様」
静かな、落ち着いた声だった。
「鳩が途中で迷ったり、鷹に襲われたりした場合は、どう対処されるおつもりですか?」
実務的な問いだった。鮭延殿らしい、真っ当すぎる問いだった。
「……それは、訓練と試行錯誤で力押し……いえ、解決します」
私が答えると、鮭延がフッと一拍置いた。
「……姫様は、難題にぶつかるといつもそう仰いますね」
(——鮭延殿? 今のは褒めてるんですか、それとも呆れてるんですか、どっちですかーっ!?)
心の中で激しくツッコを入れつつも、私は大真面目な顔のまま言葉を続けた。
「鷹への対策は、飛ばす時間帯を工夫することで減らせると考えています。迷子についても、訓練の距離を段階的に伸ばしていけば精度が上がるでしょう。最初から完璧にはなりません。でも——実践しながら改善していきます」
鮭延が、静かに頷いた。それ以上、追及はしてこない。
お父様がふうと深く息を吐き出した。
「……いいだろう、やってみよ。ただし、失敗しても誰のせいにもするなよ」
「失敗したらすべて私の責任です」
「当たり前だ」
義光が、ぶっきらぼうに言い放った。
でも、その顔はどう見ても「失敗しても怒らないよ」と言っている顔だった。眉間の皺がいつもより三割ほど少ないし、目の端が微妙に緩んでいる。
(——そう、お父様は私が失敗しても絶対に怒らない。これが、私にとって一番最強の後ろ盾なんだ)
塩水選の時も、清酒造りの時も、いつだって「やってみろ」と背中を押してくれた。失敗した時でさえ、叱るより前に「次はどうする?」と笑って聞いてくれた。
その一言に、私がどれほど救われ、支えられてきたことか。
私は深く、深く頭を下げて、温かい気持ちのまま執務室を後にした。
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、まぶしい初夏の光が縁側から差し込んできた。
私のすぐ後ろを、小春がパタパタとついてくる。
「姫様」
小春の声は、少し遠慮がちだった。
「本当に……鳩で、文を運べるのですか?」
私は少し足を止めて、廊下の先を見つめた。
城下に広がる新緑の木々が、初夏の風にさらさらと揺れている。
「やってみなきゃわからない。でも、絶対にやってみせるよ!」
小春はしばらく黙ったあと、ふにゃりと頬を緩めた。
「……姫様がそう仰るなら、きっとできますね」
小春の混じり気のない言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。
(——小春。お前のその信頼が、今の私の一番の力だよ)
表の顔は、ちょっとだけ笑って前を向く。
(失敗しても怒らないお父様という、最強の後ろ盾。そして——私の計画を鼻で笑った政宗従兄様を見返してやるという、我ながら最高に不純な……コホン、強い動機)
初夏の風が、廊下をすっと吹き抜けていった。
(——次は、鳩の専門家を探さなくっちゃ!)
鳩の訓練を専門にできる人材。この広い出羽のどこかに、きっといるはずだ。いて欲しい。……いたらいいな
私は歩き出した。
夢想が、計画に変わった日。
最上の「福姫」の次なる一手が、今日、動き出した。
鳩の帰巣本能のメカニズムは、現代科学でも完全には解明されていません。
地磁気の感知、太陽の位置、嗅覚、視覚的ランドマーク——複数の手がかりを組み合わせて「家」を探し当てると考えられていますが、その精度の高さは今なお研究者を驚かせ続けているようです。




