第46話「伝書鳩——夢想を、計画に変える日。『政宗が笑ったなら、やってみろ』」(前半)
龍門寺から戻って三日。
天正十七年(一五八九年)の初夏。山形城の庭は、青葉がもっさりと茂り始めていた。縁側に腰を下ろして、私はぼんやりと屋根の上を眺めていた。
正確には、そこにいる一羽の鳩を。
白と灰の斑模様。丸々と太った、いかにも城下の平和を体現したようなフォルムの鳩だ。
(……帰ってきた。本当に、ちゃんと帰ってきた……!)
胸の奥からじわりと熱いものが込み上げてくる。
実は、ここ三日間、私はひそかにある実験を敢行していたのだ。
ターゲットは、城の厩の軒下に巣を作っているこの鳩。
龍門寺から戻った翌朝、そっとこの子を捕獲した私は、侍女の小春に「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」とだけ言い残し、困惑する護衛の兵を一人引っ張って城を飛び出した。
「姫様、その鳩を……一体どうされるので?」
「放します(キリッ)」
護衛のドン引きした顔をスルーして、一日目は城門の反対側にある蔵の裏からリリース。
鳩はきょろきょろと辺りを見回したあと——迷いのない美しい軌跡を描いて、元の軒下へとすっと戻っていった。
(よし。でも、これだけじゃ城の建物が目印に見えているだけかもしれない)
続く二日目。私はさらに距離を伸ばし、城下を外れて半刻ほど歩いた野原で籠の蓋を開けた。
青空へ舞い上がった鳩は、高く高く旋回したかと思うと——山形城の方角へ一直線に、迷わず飛んでいったのだ。
その夕刻。軒下に戻ると、白と灰の斑模様の鳩が、ちょこんと座っていた。
(……城が見えない距離からでも戻ってきた。確実だ。目印なんかじゃない!)
前世の知識が、この目で確かめた事実と、かちりと噛み合った。
これぞ帰巣本能。本で読んだだけの生ぬるい知識じゃない。この手で証明した、本物の鳩の生態だ。
古代ローマの軍団が、伝書鳩を使って戦況を本国へ伝えた。古代中国でも、鳩は「信鴿」として通信に使われていた。鳩の帰巣本能は、人類が何千年もかけて利用し続けてきた、自然の仕組みだ。
戦国日本での記録は無かった。でも——技術的には、絶対に可能なはずだ。
(……あの文を読んでから、ずっと考えていたんだよね)
脳裏をよぎるのは、小次郎くんからの手紙。
演習の日に私がポロッと言った「鳩で文を運ぶ」ってアイデアを、彼はちゃんと覚えていて、政宗従兄様に提案してくれたらしい。
なのに。あの一世の風雲児(笑)は「子供の夢想だ」と鼻で笑ったという。
(——政宗従兄様め、よくも笑ってくれたな……!?)
あの夜、私の導火線に火がついた。白い紙に「伝書鳩・試案」と勢いだけで書き殴ったほどだ。でも、直後に龍門寺への訪問が続いて、農業改革の報告やらやませ対策の検討やらで、頭がパンクしていたけれど……
何より、おじい様が言ってくれたあの言葉が、ずーっと私のモチベーションを支えていた。
「——お前が考えていることなら、何か面白いことを思いつくのだろうな」
「奥羽を繋ぐ情報の網」なんていう、私のザックリした構想を、おじい様はそう言って全面的に信じてくれたのだ。影も形もない段階の思いつきだったのに、本当に器が大きすぎる。
(よし、状況を整理しよう。農業改革は軌道に乗った。塩水選はバッチリ成果を出して、佐助殿も『本当に稲が強くなりました!』って報告に来てくれた。苗代の保温だって、次のステップの仕込みは完了してる)
つまり、リソースには余裕がある。今こそ、次のプロジェクトを動かす時だ。
屋根の上の鳩が、タイミングよく「ぽっぽ」と一鳴き。
(——さあ、ぼちぼち始めますか!)
私は勢いよく縁側から立ち上がった。
***
居室に戻ると、私はすぐに文机に向かった。
新しい紙を一枚引き出して、筆を取る。
まずは、スペックの比較だ。
早馬の速度は、前世の知識ベースで時速三十〜四十キロ。山形から米沢までは約二十キロだから……早馬なら三、四十分ってところか。山道だし、中継の馬がなければもっとかかる。
対する、伝書鳩。
こいつの飛行速度は——前世の記憶が確かなら、時速六十〜八十キロ。
早馬の約二倍。山形から米沢なら、十五分か二十分で着いちゃう計算だ。
(——速さだけなら、二倍。それだけでも十分大きい。でも——)
私はふと筆を止めた。
(——鳩の本当の強みは、速さだけじゃない。道を選ばないことだ。山を越え、川を渡り、関所もスルーして一直線に飛べる。早馬が迂回しなければならない山道も、鳩には関係ない。そして何より——馬も人も疲れない。継ぎ馬の手配も、宿場の確保も、何もいらない)
ただし、忘れてはならない制約もある。
(——鳩は、「目的地に飛ぶ」んじゃない。自分の「巣に帰る」だけなんだよね……)
これは、伝書鳩の仕組みの核心だ。山形から米沢へ文を送りたければ、米沢育ちの鳩を山形に連れてきて放す。鳩は米沢の巣へ向かって飛ぶ——その足に文を結んで。
(——つまり、あらかじめ両方の拠点で鳩を育てておく必要がある。片道通行だ。往復させるには、両方に鳩を配備しなきゃダメ、と)
紙に数字と図を書き並べながら、頭の中で計算を転がす。制約は多い。でも——乗り越えられない壁ではない。
それに、これを用意しなきゃいけない「もっと大きな理由」があるのだ。
(——小田原だ)
豊臣秀吉が北条氏を潰す、あの大戦。たしか政宗従兄様は、参陣が遅れに遅れて秀吉にギリギリ首の皮一枚で許されたはず。もし伝書鳩が使えれば——最上と伊達の間で、その日のうちに情報を共有できる。
「秀吉が動いたぞ」「参陣の期限はいつだ?」「今すぐ出立しろ!」。そういう緊急の連絡が、山道も関所も関係なく届くのだ。
(——農業改革が『民を守る』手なら、伝書鳩は、『政治と軍事を守る』手になる。両方を揃えて、この東北を生き残らせる……!)
筆が、紙の上を走る。速度の計算、飛行距離の試算、拠点の配置案、訓練の手順の概案——。
「姫様ー」
障子の向こうから、小春ののんびりした声がした。
「はーい」
「……お昼の支度ができましたが……姫様、また何か怪しいことなさってます??」
障子がそっと開いて、小春が顔を覗かせた。文机の上に広がった紙を見て、目を丸くする。
「姫様、……何ですか、これ」
「……ハトの計算」
小春の顔が、見事に固まった。
「……は?」
(——うん、その顔になるの、分かる。でも今は説明している暇がないんだよね)
「後で説明するから、ご飯、先に食べてて」
「姫様! お一人でお食事なんてなりません!」
背後でキャンキャン騒ぐ小春の声を受け流しつつ、私は筆を置いた。
(——よし。計算終了! 次は——お父様に直談判しに行こう!)




