第45話「龍門寺への訪問③——義守に農業改革を報告する」(後半)
開け放たれた障子の向こうから、青葉を揺らす初夏の風が吹き込んでくる。
居室に通されると、お寺の人が手際よく麦湯を用意してくれた。季節に配慮してくれたのか、沸かし立てではなく少しぬるめなのがありがたい。
おじい様が、無言でスッと茶碗を私の方へ押し出してきた。
動作自体はいつも通り。だけど、その手つきには「待っておったぞ」という迷いのなさが滲み出ている。
器を両手で受け取ると、ほんのり香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。小走りで火照った手のひらに、ぬるめの温かさが心地いい。
「聞こうか」
おじい様が静かに促す。
私は麦湯を一息に飲み干し、呼吸を整えてから、本題を切り出した。
まずは『塩水選』のメカニズムからだ。種籾を塩水に沈めて、プカプカ浮いた軽いダメな種をハネ、底に沈んだズッシリ重い優良な種だけを選り分ける。
それを佐助殿の村で実演したこと。
最初は半信半疑だった彼が「やってみましょう!」と言ってくれたこと。
春の段階で、苗の育ち方が明らかに違ったこと。
そして——今年の初夏、佐助殿がわざわざ城まで駆けつけて、「本当に稲が強くなりました!」と満面の笑みで報告してくれたこと。
「……義光は何と言った」
おじい様が静かに尋ねてきた。
お父様の名前を呼ぶその口調は前回よりもずっと自然で、どこか息子の動向を気にかける父親の響きがある。
「最初は『土の上に膝をついてはいかん』と怒られました。ですが……そのあと『わしがやる』と言い出して、お父様みずから塩水の桶を覗き込んでおられました」
おじい様が、ふっと吹き出した。
「……あやつらしいな」
(——おじい様の「あやつらしいな」が、回を重ねるごとにデレ……コホン、柔らかくなってる気がする。これは……お父様が夜中に龍門寺を訪れているから、なのかな?)
私はさらに話を続けた。
春の苗の観察のこと。夏の水管理への備えを佐助殿に伝えたこと。やませへの警戒。何度も農村へ足を運んだこと。
おじい様は、遮ることなく静かに聞いてくれた。
私が話し終えると、心地のよい沈黙がしばらくの間、居室を支配した。
「塩水選か」
静かな声だった。おじい様はしばらく、無言で深く考え込んでいた。
「……わしは知らんかったな」
おじい様が、ぽつりと呟いた。
「五十年、最上を治めた。田んぼのことも、民のことも、それなりに見てきたつもりだった。だが……そんな知恵があるとは、ついぞ知らんかったな」
(佐助殿も知らなかった。おじい様も知らなかった。本当に、この世界の誰も知らなかったんだ。じゃあ私が持ち込んだのは、やっぱり紛れもない『前世のチート知識』だったんだ。でも——)
「お前は……それをどこで知った」
おじい様が、静かに問うてきた。
「……書物で、読んだことがあって」
曖昧に答えた。嘘は言っていない。前世の(ネット記事とか教科書っていう)「書物」だけど。
おじい様はそれ以上追及せず、ただ静かに頷いた。
(——助かった……! おじい様は『どこで知ったか』という出元よりも、『それをどう使ったか』に興味があるタイプだ!)
「お前は……それを農民の前で実演したな」
おじい様が、静かに言葉を紡ぐ。
「塩の濃さの目安を示し、浮き沈みの確かな見極め方を教えた。知恵を、誰でも使える『法』として整えた。——仕組みを創ったのだな」
どくん、と胸が跳ねた。
(——仕組みを、創った)
その一言が、頭の中で爆発的な勢いで広がっていく。
(——そうだ。私がやったのは、まさにそういうことだ!)
知識を持っているだけなら、ただの物知り、あるいはただのオタクだ。それを『誰でも再現できる手順』に落とし込んで、佐助殿が「やってみましょう」と言えるところまで引っ張っていく。
(——それこそが、私のやったこと。私の価値だったんだ。)
おじい様は、自分が知らない知恵なのに、私が何をしたかを一言でまとめてみせた。
「……おじい様には、すべてお見通しなのですね。物事の芯を、一言で見抜かれてしまいました」
思わず、偽らざる本音が出た。
おじい様が、静かに笑った。
「長く生きると、そういうことだけは上手くなる」
その笑い方が、どこか寂しそうで、でもひどく穏やかで——私は、次の言葉を紡ぐことができなかった。
「駒」
おじい様が、静かに私の名を呼んだ。
「お前は……どこまでやるつもりなのだ?」
私は、少しだけ呼吸を置いてから、まっすぐにその瞳を見返した。逃げも隠れもすることじゃない。
「出羽一国を、変えたいと思っています」
おじい様が、静かに目を細めた。
「一国、か」
「はい。佐助殿の村だけでは、とても足りません。この知恵が出羽の全領に広まれば——飢饉の年であっても、死なずに済む民が確実に増えます。次は水路の整備を考えています。それから、やませへの備えも」
「……やませ」
「あの、北からの冷たい風が夏に吹くと、稲が育たなくなる。この出羽では、それが一番の脅威なんです」
おじい様が、しばらく黙りこんだ。
開け放たれた縁側の外、青葉が初夏の風にさらさらと音を立てて揺れている。
「……一国を変えるのに、何年かかると思う」
「十年は、かかると思います」
おじい様の眉が、わずかにピクリと動いた。
「十年」
「はい。でも——十年あれば、必ず変えられます」
(——十年後、私は十八歳。……まあ、史実通りだったら私は十五歳で処刑される運命なんだけどね。だからこの『十年』は、私が生き延びていれば、の話だ)
でも——生きる。
死んでたまるか。絶対に生き抜いてみせる。
そのためにも、この泥にまみれた改革を絶対に止めない!
おじい様が、射抜くような視線で私を見た。
「……お前は、自分が何をしておるか、真にわかっておるか」
「……はい」
「単に作物の実り方を変えるのではない。お前は……奥羽の根基を、作り直しておるのだ」
どくん、と胸が跳ねた。
(——根基を、作り直す)
「……おじい様」
思わず、掠れた声が漏れていた。
「お父様が……負けないように。天下の豊臣に対しても、対等に立てるように。私は、最上の、奥羽の根基を作りたいんです」
言葉が、自然と溢れ出していた。
賢く立ち回るための言い訳なんかじゃない——ただ、私の胸の奥にある、偽らざる本当の願い。
おじい様が、黙った。
部屋の空気がパキッと張り詰めるような、長い、長い沈黙。
「……そうか」
おじい様が、深く、静かに頷いた。
その一言のなかに、言い尽くせない何か——お父様や最上の家への、決して断ち切ることのできない愛情がぎっしりと詰まっている気がした。
(——おじい様とお父様は、このお寺でどんな言葉を交わしているんだろう。それとも……ただ、黙って並んで座っているだけなのかな?)
聞けなかった。でも——聞かなくてもいい気がした。
***
しばらくの沈黙が、穏やかに流れた。
遠くで鳥の鳴く声が響き、また元の静寂が戻ってくる。
「お前は……出羽を……奥羽を愛しているな」
おじい様が、ふっと表情を和らげて、静かに言った。
(——愛している、か)
私の胸の中で、何かがゆっくりと動いた。
──愛している。この土地を。ここに生きる人たちを。
お父様を、政宗お兄様を、佐助殿を、小春を。そして、目の前のおじい様を。
前世の私には、こんな感覚はなかった。
史学科で東北の歴史を学んでいた時、私はただの『観察者』に過ぎなかったからだ。
教科書の文字をなぞり、ノートにカリカリと書き留め、試験が終わったら忘れていく。ただそれだけ。
でも、今は違う。
私はここにいる。この世界の、最上の人間だ。
佐助殿の田んぼが放つ泥の匂いを知っている。
おじい様の「また来たか」という声が、少しずつ柔らかくなっているのを知っている。
威厳あるお父様が農民の前で泥にまみれ、塩水の桶を真剣に覗き込んだ、あの滑稽で愛おしい光景を知っている。
前世では決して持てなかった、本物の『ここに生きている』という手応え。それを、私はこの土地で初めて手に入れたんだ。
「……はい」
表向きは、一言だけそう答えた。
だけどその二文字に、私のすべての想いを詰め込んだつもりだった。
おじい様が静かに頷き——それから、悪戯っぽくふっと笑った。
「義光に伝えておく」
「……はい?」
「お前を大切にしろ、と」
(——おじい様ァァァァァ!!!!)
私は内心で盛大に絶叫した。
(──お父様はすでに過剰なほど私を甘やかしています! むしろ大切にしすぎて、城下に出るだけで護衛が五人もついてくるし、農村に行けば「土の上に膝をついてはいかん!」と過保護を発揮するし、部屋で文字を書いていれば「目が悪くなる」と夜中に燭台を増やしに乱入してくるレベルなんですけどーー!!)
でも——その言葉は、たまらなく嬉しかった。
(——おじい様が「義光に伝えておく」と言うとき、そこには隠しきれない息子への愛情がある。夜中にこっそり会いに来る不器用な息子に、孫娘を介して届けようとしている言葉なのだ。その優しさが、胸の奥にじんわりと染み渡る。)
表の顔は、淑女らしく上品に微笑んでみせた。
「……ありがとうございます」
おじい様が、くすくすと肩を揺らす。
(————あ、この笑い方。おじい様、絶対すべて分かってて言ってるな? お父様の親バカっぷりを知った上で楽しんでるでしょ……!)
「水利はどうするつもりだ」
おじい様が、何事もなかったかのように話を切り替えた。
「田に水を引く仕組みが変われば、収穫は大きく変わる。塩水選の次は、そこだろう」
「……はい。考えています」
「何を考えている」
「水路の整備と、苗代の保温を並行して進めたいと思っています。それから……情報を、どこよりも速く届ける手段も」
「情報を届ける手段?」
おじい様が、跳ね上げた。
「農業だけじゃなくて……奥羽全体を繋ぐ、情報の網を作りたいんです。まだ試案の段階なのですが」
おじい様が、静かに私を見た。
「……お前が考えていることなら、何か面白いことを思いつくのだろうな」
(——あぁ、信頼されているんだな、私)
まだ形にもなっていない思いつきなのに、「お前ならやる」と全面的に信じてくれている。
この絶対的な安心感は、お父様が「駒が考えることなら、俺は信じる」と言ってくれる時の、あの温かさと全く同じ種類のものだった。
(——親子だなぁ、本当に)
「……必ず、形にします」
おじい様が、静かに頷いた。
日が傾き始めた頃、おじい様が「今日は長く話したな」と言った。
山門まで、おじい様が見送りに出てくれた。
境内の端にある石に腰掛けていた小春が、慌てて立ち上がってホッとした顔をした。
「おじい様、また来ますね」
山門の前で、私は振り返った。
「ああ。待っておる」
おじい様が、静かに答えた。
山門をくぐりながら、もう一度だけ振り返った。
おじい様は、まだそこに佇んでいた。初夏の夕陽の橙色が、その白髪を静かに、だけどどこか儚げに染めている。
(——最上義守。一五九〇年、死去)
前世の知識が、私の頭の中で無慈悲にアラートを鳴らす。
今は一五八九年の初夏。あと一年しかない──。
(——お父様は、知っているんだろうか。)
おじい様の残り時間が、もう残り僅かだということを。
だから夜中に、周囲に隠れて龍門寺を訪れるのだろうか。
『羽州の狐』と恐れられるあの人が、世界で唯一、ただの『息子』に戻れる場所を求めて。
私は前を向いて、歩き出した。
タイムリミットは、私にもおじい様にも迫っている。
だったら立ち止まっている暇なんてない。
一分一秒でも早く、この手で奥羽の未来を書き換えてみせる。
***
その夜。
山形城の義光の執務室に、燭台の明かりが揺れていた。
義光は、窓の前に立っていた。朝と同じ場所に、同じように腕を組んで。
「……駒は何を話してきたのだ」
鮭延に向かって、静かに問うた。
「農業改革の報告をされたようです」
鮭延が、静かに答えた。「塩水選の成果を、詳しく話されたとか。それから……お話しされたと聞き及んでおります」
義光が、黙った。
長い沈黙だった。
(——父上は、何と言っておった)
その問いが喉の奥まで出かかり、熱を持ってせり上がってくる。
だけど——言葉にならなかった。出すことが、できなかった。
自分で会いに行けばいい。実際、何度も行っているのだ。
夜中に、誰にも告げず、ただ一人の息子として。
──それでも、愛娘の駒を介して語られる「父上の言葉」は、また別の、特別な重みを持つ気がして。
「……そうか」
義光はただ一言、それだけを絞り出し、頑なに窓の外を見つめ続けた。
「……殿」
全てを察した鮭延が、静かに呼びかける。
「余計なことを言うな」
義光がその言葉を遮った。
だけど、拒絶するような鋭さはなく、声の響きはどこまでも静かだった。
「……御意に」
鮭延が、静かに頭を垂れる。その目元には、主君の不器用さを愛おしむような、温かさが宿っていた。
義光は、窓の外の夜の出羽を、しばらく見ていた。
(——父上。あなたは今夜も、あの縁側に座っているのか)
その言葉が、口に出ることはついぞなかった。
初夏の風が、城下に広がる木々を、ただ静かに揺らしていた。
最上義守はしばしば「息子に追放された凡庸な当主」として描かれがちですが、史実では最上家の勢力を一定程度維持した人物でもありました。
義光が後に「羽州の狐」として大きく飛躍できた背景には、義守が積み上げた家臣団の基盤があったとも言えます。
ただし、史料には、義光が義守の蟄居先を訪れたという明確な記録は残っていないようです。
しかし前にも後書きで触れましたが、義守が龍門寺で天寿を全うしたという事実、そして義光が父の菩提を丁寧に弔った形跡は残っています。
「会いに行かなかった」のか、「記録が残っていないだけ」なのか? 本作では夜中にこっそり龍門寺を訪れている設定とし、作者の勝手な願望も込めて、この「史料の空白」を埋めてみました。




