第45話「龍門寺への訪問③——義守に農業改革を報告する」(前半)
ちょっと、体調不良です。今日は、第45話の前半だけしかUPできなさそうです(泣)
朝の山形城は、初夏の光の中に静かに沈んでいた。
最上義光は、執務室の窓の前に立っていた。
腕を組んで、窓の外を見ている。いつもなら、この時間は書状の山と格闘しているか、鮭延に何かを怒鳴りつけているかのどちらかのことが多い。しかし今朝は、ただ無言で立ち尽くしていた。
「殿」
鮭延秀綱が、静かに口を開いた。
「姫様が今日も龍門寺へ向かわれました」
義光の肩が、ピクリとわずかに動いた。
「……そうか」
ぽつりと言っただけだった。振り返りもしない。
窓の外で、青々と茂り始めた城下の木々を、ただ見つめている。
鮭延が、一拍置いてから問いかけた。
「……お止めしないのですね」
義光が答えるまでに、長い沈黙があった。
「駒が自分で決めたことだ」
短い言葉だった。それ以上でも、それ以下でもない。
鮭延は、主君の横顔を静かに見つめた。
止めたい気持ちはあるのだろう——鮭延には痛いほどわかる。
義守に会いに行くということが、どういう意味を持つのか。それを一番よく知っているのは、他でもない義光自身だ。
──父を追放した。その過程で、弟を失った。
その確執の対象である父が、今も龍門寺にいる。そして、自分の愛娘が、何度もそこへ足を運んでいるのだ。
正直に言えば、口惜しいに決まっている。
だが、それだけではなかった。
駒が龍門寺に通い始めてから、明らかに農業改革の成果が出始めた。佐助の村の稲が強くなった。城下の評判がガラリと変わった。いつしか「福姫」という言葉まで広まった。
それらの奇跡が、義守への訪問とどこかで繋がっている。義光はそれを、認めたくないながらも、肌で感じているはずだった。
——それに、だ。
鮭延は、もう一つの「秘密」を知っていた。
義光自身も、時折、龍門寺を訪れているのだ。
深夜に、供も連れず、ただ一人で。そして翌朝には、何事もなかったような顔で城に戻ってくる。
鮭延は一度だけ、その背中を見送ったことがある。
あの夜の義光の背中は——「羽州の狐」でも「羽州の虎将」でもなかった。ただの、父親に会いに行く一人の息子の背中だった。
だからこそ、鮭延はそれ以上踏み込まない。
「……殿は、お父上のことが、まだ——」
「余計なことを言うな」
義光が、言葉を遮った。
でも、その声は驚くほど静かだった。いつもの怒鳴り声ではなかった。それが——鮭延には、何よりも雄弁な答えだった。
義光は、窓の外をもうしばらく見つめていた。
初夏の風が、城下の木々をさらさらと揺らしていく。
***
龍門寺への道は、前とはまるで別の景色だった。
昨年の秋は、石畳が落ち葉で埋まって、踏むたびにくしゃりと湿った音がしていた。けれど今回は石畳がすっきりと見えていて、木々はもう青々と葉を茂らせている。境内の空気も、あの時の冷たさとは違う——青草と土の匂いが混じった、夏の入り口の空気だ。
(——よし。今日は、おじい様のお話を聞く側じゃなくて、私から話すことが山ほどある!)
私は歩きながら、心の中でそう気合を入れた。
最初の訪問でおじい様の存在を知り、次には天正最上の乱と直江兼続の話を聞かせてもらった。その時におじい様から「次に来る時は農業改革の話を聞かせてくれ」と言われて、私は「山ほど報告を持ってきます!」と約束したのだ。
そして今日——佐助殿の「本当に稲が強くなりました」という、これ以上ない大成功の報告を引っさげて、私はここに来た。
「姫様」
隣を歩く小春が、少し遠慮がちに声をかけてきた。
「殿様には、ちゃんとお伝えしてあるんですよね」
(——今回は、ちゃんと言いましたとも!『龍門寺へ参ります』って。そしたらお父様は……しばらく黙ってから、『護衛をつけろ』とだけ言ったのだ)
あの時のお父様の顔を思い出す。
苦虫を噛み潰したような、なんとも複雑な表情だった。止めることはしなかった。でも、「行ってこい」と快く送り出してもくれなかった。ただ一言「護衛をつけろ」とだけ言って、ぷいっと窓の外を向いてしまったのだ。
(——でも、あの時の顔。ただの複雑な感情だけじゃなくて、もう一つ別の何かが混じっていた気がする。もっと個人的な……胸の奥にある、何か)
実は前に、鮭延様からこっそり聞いたことがある。
お父様が時折、夜中に城を抜け出して、龍門寺の方へ向かうことがあるらしい、と。供も連れず、たった一人で。そして翌朝には、何事もなかったような冷徹な顔で戻ってくるのだという。前におじい様も、時々お父様が訪ねて来るとお話しをしてくれた。
(——お父様も、おじい様に会いに行っているんだし)
その事実が、胸の奥でじんわりと優しく広がっていく。
かつて追放した父親に、それでも会いに行く。夜中に、誰にも見つからないように、こっそりと。「羽州の狐」なんて呼ばれるお父様が、誰にも見せない顔をしてそうしている。それって一体、どんな気持ちなんだろう。
「……はい。今回はちゃんと伝えましたとも」
「そうですか」と小春がほっとした顔をする。「殿様は何もおっしゃらなかったんですか?」
「護衛をつけろ、と」
「……それだけですか?」
「それだけよ」
小春は、何か言いたそうな顔をして私の横顔を見つめたけれど、それ以上は黙ってくれた。
そうこうしているうちに、山門が見えてきた。
くぐると、境内の空気がすっと変わる。
外の初夏の風とは一線を画す、静かで落ち着いた空気だ。龍門寺の境内は青葉がわっさりと茂っていて、前回の落ち葉だらけの景色とは打って変わった、鮮やかな緑の世界になっていた。石畳が木漏れ日の中にきれいに映えている。
──そして。縁側には、すでに白髪の老人が腰掛けていた。
こちらを向いて、いてくれた。
「よく来たの」
その渋い声が、静かな境内に響く。
「はい、おじい様。約束通り、参りました!」
おじい様が、かすかに口元を緩めた。
「……今日は、前と顔つきが違うな?」
「顔つき、ですか」
「前の訪問では、儂の引き出しを開けようと目を輝かせておったな。それが今日は……どうだ。よほど見事なお土産を懐に忍ばせてきたと見える。いい面構えだ」
(——おじい様、鋭すぎる。さすが元・最上家当主)
「はい。報告があります」
おじい様が、静かに頷いた。
「ならば、中で聞こう」




