第44話「駒姫八歳——最上の福姫、誕生」(前半)
私が八歳になった年、天正十七年(一五八九年)の春は、去年よりも少しだけ早く来た。
山形城の庭に、梅の白い花が咲き始めた頃のことだ。
私は文机に向かって、せっせと何かを書いていた。正確には、「次の農業改革の計画書」だ。苗代を藁で囲う温室化の試案と、水路の整備案を合わせて、できるだけ分かりやすく図解している。佐助たちに次に会った時、すぐに説明できるように。
(——苗代の保温さえうまくいけば、発芽率はさらに上がるはず。水利の整備は時間がかかるから、今年から少しずつ動かしておかないとね!)
前世の知識を引っ張り出しながら、筆を走らせる。八歳の手は、まだ少し不器用だ。字が曲がる。でも内容は確かだと思う。
「姫様!」
障子が勢いよく開いた。
小春だ。頬を上気させて、目をきらきらさせてる。こういう顔をしている時の小春は、大抵、何か突拍子もないことを言いに来るんだよ。
「聞きましたか、姫様!」
「……何を」
私は筆を止めずに答える。計画書を書いてる途中だから、静かにして欲しい。集中が切れると、また最初から考え直しになるんだから。
「領民の方々が——」
小春が、一拍溜めた。溜めた。めっちゃ溜めた。この子は時々、こういう芝居っ気を発揮する。
「姫様のことを、『最上の福姫』と呼んでいるそうです!」
筆が、止まった。
(——ふ・く・ひ・め)
私は、その言葉を頭の中で転がした。
(——福姫。ふくひめ。……ふくひめ?)
「酒が美味しくなったのも、稲が強くなったのも、姫様のおかげだと皆さんが言っているんです! 城下だけじゃなくて、農村の方々にまで広まっているそうで——」
小春が言葉を弾ませる。これ以上ないほど嬉しそうな顔だ。
(——そりゃあね、ありがたいことだよ。それはありがたい話だ、けれども……でもね)
私の内心は、スンと冷めていた。
(——いや、プレッシャーすごすぎるって! 私はただ、前世のチート知識を小出しに使っているだけで、本当に「福」を呼べるかなんて、まだ分かんないよ。来年の稲の出来が悪かったら、どうすんの? お酒の品質だって、まだ改良の余地がある。「福姫」なんて呼ばれたら、失敗した時の落差が怖すぎるでしょ……!)
転生者の冷静な自己評価というのは、時として残酷だ。褒められれば褒められるほど、「いや、私ただの一般人(前世)だからね?」という冷めた声が、胸の奥から湧いてくる。
「姫様? 喜ばないんですか?」
小春が、不思議そうに首を傾げた。
私は、筆を置いた。そして、できるだけ上品な笑みを作る。中身は大人でも、見た目は八歳の可愛いお姫様。……うん、この顔は本当に便利だ。
「そう……それは、嬉しいわね」
「嬉しいわね、じゃないですよ! もっと喜んでください! 領民の方々が、こんなに姫様を慕ってくださっているんですよ!」
(——分かってる。分かってるんだけどさ、小春。そのぶん『重さ』がエグいのよ!)
私は心の中でそう呟きながら、表の顔は穏やかに微笑み続けた。
「ありがたいことね。でも……まだ道半ばよ。喜ぶのは、もう少し先にしておく」
「姫様は、本当に変わっていらっしゃいますね」
小春が、呆れたような、でも温かい目で見つめてくる。
(——変わってるのは認める。でもね、小春。「福姫」なんて呼ばれたら、その期待に応え続けなきゃいけないじゃない。それが怖くてたまらないんだってば)
梅の花が、窓の外でひらりと揺れた。
春の風が、計画書の端を、かすかにめくった。
その頃——山形城の評定の間では、一つの報告が行われていた。
「殿」
鮭延秀綱が、静かに口を開いた。
座って腕を組む義光は、相変わらず威圧感たっぷりだ。……が、今日の目は完全に緩んでいた。
「領民の間で、姫様を『福姫』と呼ぶ者が増えております。酒造りの改良と、塩水選の成果が、城下と農村の両方に広まったようで。姫様が最上を豊かにしてくださっている、という評判でして」
鮭延が淡々と報告を続けると、義光はしばし沈黙し——次の瞬間、満面の笑みになった。
「そうであろう!」
嬉しそうな声が評定の間に響き渡る。
「駒は俺の宝だ! 俺が言い続けてきたことが、ようやく領民にも伝わったわ! 当然だ! 当然のことだ!」
鮭延が、答えた。
「殿、それは耳にタコができるほど前から存じております」
義光の動きがピタッと止まった。
「……お前、今めちゃくちゃ何か言いたそうな顔をしておるな」
「滅相もございません」
「嘘をつけ」
鮭延は、すっと真面目な顔に戻って間を置いた。
「……姫様が『福姫』と呼ばれるのは、姫様ご自身のお力によるものです。殿のお力ではございません」
シーン、と評定の間に静寂が落ちる。
義光が鮭延を見る。鮭延が義光を見る。
「……わかっておる!」
義光が、腕を組み直した。
「わかっておるが……俺の娘だぞ! 俺の血を引いておるんだぞ! 親が娘を誇るのの、何が悪い!」
「……はいはい、殿」
鮭延が静かに頷く。その目は、かすかに呆れ、そして温かく笑っていた。
義光はフンと鼻を鳴らし、窓の外の梅の木に目を向けた。
(——駒よ。お前は本当に、俺の宝だ。それだけは、間違いない)
その言葉は口には出さなかったけれど。
横にいる鮭延には、全部お見通しなのだった。




