第42話「角館の鷹、山形城へ——戸沢盛安、最上に仕る」(前半)
角館城の朝は、静かだった。
静か、というより——凍りついている、という方が正確かもしれない。
晩秋の出羽の空は、まだ夜明けの薄墨色を引きずっていた。奥羽山脈の稜線が、白く霞んだ空の下にくっきりと浮かんでいる。山の頂はもう雪を被り始めていた。冬が、すぐそこまで来ていた。息を吸うと、肺の奥まで冷たい。吐いた息が白く広がって、すぐに消えた。
大手門の前に、馬と供の者たちが集まっていた。
戸沢盛安、二十七歳。
陽に灼けた引き締まった身体に、左の頬を走る三年前の傷。『鬼九郎』と呼ばれる男の姿を間近で見た者は、誰もがその目に息を呑む。感情を削ぎ落とし、ただ冷徹に目の前の現実だけを射抜く、あの目だ。
今朝も、その目は静かだった。
「兄上」
声が、背後からした。
振り返ると、光盛がいた。まだ元服前の頬には、子供特有のぷにっとした丸みが残っている。その頬が、朝の冷気で赤くなっていた。
「本当に、行かれるのですか」
光盛の声は、真っ直ぐだった。子供らしい、遠慮のない問いだ。
「ああ。行かずばなるまい」
盛安は、静かに答えた。
「……口惜しくないのですか」
口惜しい。
その言葉が、胸の奥に刺さった。刺さったまま、抜けない。
口惜しくないわけがない。最上に頭を下げる。それがどういうことか、武将として生きてきた盛安には、骨の髄まで分かっている。
だが——。
「口惜しさなんぞで立ち止まる男は、民を守れん。それだけのことだ」
光盛が、口を閉じた。反論したい気持ちと、納得しかけている気持ちが、ないまぜになっている顔だ。まだ子供だから、そういう感情を隠せない。盛安は、それを悪いとは思わなかった。
むしろ——羨ましいとさえ思う。
盛安は馬に乗った。手綱を握りながら、心の中で呟く。
(——鷹が、籠に入るような心地だ)
しかし——。
(いや、違う。籠などではない。これは……角館の民のため。奥羽が同じ方向を向くための、はじまりの一歩だ)
自分に言い聞かせているのか、本当にそう思っているのか。正直、盛安自身にも分からなかった。おそらく——両方だ。
角館の山々が、冬の入り口で最後の色を燃やしていた。楓の赤、朴の木の黄、松の深い緑——それらが重なって、まるで巨大な錦の屏風のようだ。この景色が、好きだった。子供の頃から、ずっと。
この景色を守るために、行く。
それだけのことだ。
「兄上」
光盛が、もう一度呼んだ。
盛安は振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだった。
「……行ってらっしゃいませ」
光盛の声は、今度は真っ直ぐではなかった。少し、震えていた。
盛安は、無言で馬を進めた。
山形城まで、二日の道のりだった。
***
出羽国、山形城
私は、今朝からどうにも落ち着かなかった。
(——戸沢盛安殿が、今日、この城にいらっしゃる)
お父様から聞いたのは三日前のことだ。「戸沢が従属の挨拶に来る。駒も同席せよ」と言われた時、私の脳裏には、先日お父様に見せられた戸沢家からの書状の文面が鮮烈に蘇っていた。
『御用に罷り立ち申したく——』
武家書状における、極めて一般的な定型句。直接「軍門に降る」とは決して書かない。けれど、そのそっけない一文の奥底に、独立を保ってきた国人領主としてのどれほどの葛藤と、へし折られかけた誇りが詰め込まれていたか。前世の史学科で武家文書を読み漁ってきた私には、痛いほどに理解できた。
(この書状を綴った者は、どれほど震える手で筆を走らせたのだろう。決断するまでに、どれほどの血を吐くような時間を重ねたのだろう)
それを想うだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
でも同時に、もう一つの強烈なワードが、私の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。
(——「鬼九郎」)
戸沢盛安。二十代の若さでありながら、戦場での常軌を逸した武勇からそう渾名され、敵を震え上がらせてきた北出羽の猛将だ。
(……鬼、ねえ)
私はチラリと、静まり返った謁見の間の上座へと視線を向けた。そこには、いつもの冷徹な「羽州の狐」モードのお父様が、どっかと腰を下ろしている。
(お父様も「狐」とか「虎将」とか呼ばれているけど、私にとってはただの親バカだ。だから「鬼九郎」さんも、実際に会ってみたら案外……)
謁見の間は、万事滞りのないようにすでに完璧に整えられていた。筆頭家老の氏家守棟殿が、朝早くから目を光らせて手配を進めていたのだ。さすがは最上の実務の鬼。本当に頼りになる。
そして上座には、お父様。
今日のお父様は、普段の姿とは完全に別人のそれだった。
親バカ全開の「お父様」ではない。完全に「羽州の狐」の顔だ。微動だにせず背筋を伸ばし、その双眸は獲物を値踏みする肉食獣のように鋭い。お父様が呼吸をするだけで、部屋の空気がピリピリと爆ぜるように凍りつく。こういう時のお父様は正直、背筋が寒くなるほど怖い。……けれど、同時にこの上なく頼もしいのも事実だった。
(——今日は徹底して空気になろう。戸沢殿にお父様の大名としての器を見せつける、大事な外交の場なんだから)
そう心に決めた、その時だった。
しんと静まり返った廊下から、畳を踏みしめる確かな足音が聞こえてきた。
戸沢盛安殿が、謁見の間へと入ってくる。
(——お若い)
それが、私の率直な第一印象だった。
苦渋の満ちた書状の文面から、もっと世慣れた年配の武将を勝手に想像していたのだ。しかし実際に目の前に現れたのは、今年二十七歳になるという、極限まで引き締まった体躯の若者だった。
戦場を駆け抜けてきたことを物語る日焼けした肌、左の頬に走る鋭い傷痕。そして——何よりも、その瞳。
(——漆黒の瞳。それに、年齢にはおよそ不釣り合いなほど、酷く静かな目をしている)
若い武将の目とは思えないほどの、昏い静寂。感情を表に出すことを、とうの昔に削ぎ落としてしまった人間の目だ。
(……これが「鬼九郎」か)
私は、こっそり観察をはじめる。
(確かに、隙のない厳しい顔立ちではあるけれど。でも……狂犬のような『鬼』というよりは、どちらかと言えば、過酷な運命に耐え抜いてきた『孤高の刃』という感じ。お父様や政宗お兄様の方が、よほど表に出てくる威圧感や覇気は強い気がするけれど?)
盛安殿が、上座に座るお父様に向かって、流れるような所作で深く頭を下げた。
「羽州探題、最上義光殿。此度は御家の御用に罷り立ち申したく、参上仕りました。戸沢左衛門尉盛安にございます」
低く、けれど芯の通った声が、凍りついた室内に響き渡った。
お父様が、けれど深く響く声で言った。
「戸沢左衛門尉殿、よく参られた」
その声には——勝ち誇るような驕りが、微塵も感じられなかった。
(——お父様が、『勝って当然』というドヤ顔を隠してる……!)
私は小さく目を見張った。お父様は時々、勝者の余裕をこれでもかと前面に出しすぎることがある。けれど今日は違った。「よく参られた」というごく短い一言の奥に、同じ国人領主として戦い抜いてきた相手への、確かな敬意が滲んでいたのだ。
「戸沢家の誇る比類なき武勇は、最上にとっても大いなる盾であり、刃だ。共にこの奥羽の地を守ろうではないか」
盛安殿が、わずかにその漆黒の目を細めた。
(——あ。確かめるような目。お父様の言葉が本物かどうか、じっと値踏みしてるんだ)
張り詰めた主導権争いの空気が流れた、その時。背後に控えていた鮭延殿が、滑り込むように静かに前へと出た。
「戸沢殿、最上家が臣、鮭延典膳秀綱にございます」
水が流れるような、穏やかな声だった。そして——こともなげに続けた。
「我が殿は……時々、お言葉が少々足りないことがございますが、その心底は、今お口にされた通りにございます」
謁見の間に、一瞬の静寂が落ちた。
「……鮭延」
お父様の声が、一段低くなった。
「余計な口を挟むな」
「はっ。これは不調法をいたしました」
鮭延殿は、涼しい顔だった。
すると——じっとその様子を見ていた盛安殿の厳格な口元に、かすかな、本当に微かな笑みが浮かんだ。
「……いえ。おかげさまで、よく分かりました」
(——笑った! 『鬼九郎』が笑った!)
私は心の奥で快哉を叫んだ。
この謁見は上手くいく。最上と戸沢はきっと良い関係になれると、確信に満ちた熱い想いが胸に広がった。




