第41話「龍門寺への訪問①——祖父・義守との対面」(後半)
おじい様が、傍らにあった茶碗を静かに私の方へ押し出した。
「飲め」
「ありがとうございます」
両手でお茶碗を包むと、ぽかぽかと温かい。秋の冷たい空気のなかで、この温もりは本当に五臓六腑に染みる。
「駒」
おじい様が、静かに語りかけてきた。
「大崎合戦の和睦の裏工作も、今回の上杉との一件も……実はお前が裏で差配したと聞いたぞ」
私は、思わず目を丸くした。
「……はい。お父様のお名前をお借りして書状をお送りしたのですが、なぜそれを……」
「義光がの、ここに参った折に話していったわ」
(——お、お父様が、おじい様に私の話をしていたの……!?)
途端に、猛烈な気恥ずかしさが押し寄せてきた。
娘の自慢話をわざわざ父親に報告しているお父様の姿を想像してしまい、なんだか無性に照れくさい。八歳の子供の身体は正直だから、顔がみるみる真っ赤になっていく。
(——……って、あれ? ちょっと待って?)
次の瞬間、私はもっと重要な「別の事実」に気がついた。
(——『義光が話していった』ということは、二人は今でも普通に会って話をしてるってこと!? 城を追った息子と、追われた父親が、今でも密かに言葉を交わしているなんて……知らなかった)
「あやつは、お前のことを心底誇りに思っておるぞ。本人の前では、はっきりと口には出さんかも知れんがな」
おじい様がクスクスと笑いながら言う。
慈愛に満ちたその言葉が、私の胸にじんわりと染み渡っていく。
(——もう、お父様ったら……)
私は照れ隠しもあって、ずっと気になった疑問をそのままぶつけてみた。
「おじい様は……お父様と、今でもちゃんとお話しをされているのですか?」
私のストレートな質問に、おじい様は少しだけ目を細めた。
「……たまにはな。義光は、己の中に答えが出ぬような用がある時だけ、ふらりと来る。それで十分じゃ」
用がある時だけ、と。
(——それは……寂しいということなのだろうか。それとも、本当にそれで十分だと、心の底から思っているのだろうか)
八歳の私の知恵では、まだ判断がつかなかった。
「駒」
おじい様が、射抜くような静けさで私を見つめた。
「なぜ、お前は女だてらにそこまで国事に首を突っ込むのだ。すべては……義光のためか?」
「はい。ですが……お父様のためだけではございません」
私は、小さく息を整え、意を決して言葉を継いだ。
「最上も、伊達も、奥羽がこうして内輪で争っている場合ではないのです。もっと抗いようのない、巨大な脅威が、すぐそこまで来ています」
「……大きな脅威、とは」
「関白、羽柴秀吉様です」
痛いほどの沈黙が部屋を包み込む。
庭の楓から、また一枚、真っ赤な葉っぱがはらはらと落ちた。
完璧すぎる演出に、私の心臓のバクバクが止まらない。
「……お前は、本当にずっと先を見ておるのだな」
ぽつりと落とされた、静かな言葉だった。
そして——おじい様は視線を楓に戻し、淡々と続けた。
「——義光とは、色々あった。お前も、いつかは聞くことになるじゃろう」
(——えっ、自分からその話題に触れるの!?)
胸がトクンと跳ねた。
おじい様は、私に隠すつもりなど最初からないのだ。実の息子に城を追われた、あの凄惨な『天正最上の乱』のことを。
「まあ、今日はそれだけにしておこう」
おじい様は静かにお茶を一口飲むと、それ以上は何も言わなかった。
その横顔は驚くほど穏やか。でも穏やかだからこそ、『今日は話す時ではない』という冷徹なまでのストッパーがかかっているのが分かった。
(——おじい様は、全部わかった上で、話す時を選んでいる。このおじいちゃん、やっぱりただの隠居老人じゃない、本物の元・戦国大名だわ)
戦国を生き抜き、敗れてなお最上の行く末を見つめ続ける、恐ろしいほどに深い人だ——私はただ、その横顔をじっと見つめることしかできなかった。
しばらくして、おじい様が「なかなかに、お前は……厄介な子じゃの」と呟いた。
「義光より、よほど手に負えんわ」
(——厄介! おじい様が、直々にそうおっしゃるか!)
単なる揶揄ではない。かといって、孫の成長を無邪気に喜んでいるだけでもない。その微笑みの境界には、今の私では到底言い当てられない、複雑な何かが混ざり合っていた。
気づけば頬が勝手に熱くなっていた。
「おじい様、そんなことお父様には絶対に言わないでくださいね」
「ほう、なぜじゃ」
「お父様は……私が少しでも使えると分かると、面倒くさいお役目をどんどん押しつけてくるのですから」
私の泣き言に、おじい様は「……あやつらしいな」と、今日一番の苦笑を漏らした。
(——『あやつらしいな』)
たったの一言。だけどその短い言葉のなかに、何年もの激しい親子喧嘩の歴史が、全部きれいに収まっていた。呆れも、愛情も、それ以上の複雑な想いも全部。
「おじい様から見て……お父様は子供の頃、どのようなお子だったのですか?」
思い切って、ずっと聞いてみたかったことを聞いてみた。
おじい様は、少しだけ間を置く。そして、庭の真っ赤な楓を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……義光か。あやつは、幼い頃から豪快の極みであった。滅多に泣いたことがない。泥の中に転んでも、ただ豪快に笑っておったわ」
「——あはは、それ、今のお父様そのものですね」
「……そうじゃな」
おじい様が、優しく笑った。
——でも、その笑顔の奥の奥に。言葉にはできない、切ない何かが滲んでいるのが見えた気がした。
(——泥の中で転んでも笑っていたその男の子は、実の父親をお城から追い出すときも、やっぱり泣かずに、笑っていたんだろうな……)
おじい様は、その言葉を絶対に口には出さなかった。
けれど私には、その語られなかった言葉が、秋の風に乗ってはっきりと聞こえた気がしたんだ。
(——おじい様はお父様を恨んでいない。だけど……忘れたわけでもない。恨まない、でも忘れない。その両方を抱えたまま、こんなに穏やかなおじいちゃんでいられる。……それこそが、この最上義守という人の、本当の凄さであり、器の大きさなんだ)
帰り際、おじい様は山門の手前まで見送りに出てくれた。
すっかり秋の夕暮れになった境内。風が吹くたびに落ち葉が舞い上がって、おじい様の真っ白な髪が夕陽の橙色にキラキラ輝いている。
「おじい様、またお伺いしてもよろしいですか」
「あぁ、いつでも来い。隠居の身は、暇じゃからな」
(——おじい様は、本当に暇なのかな? それとも私が来やすいように『暇だ』って言ってくれてるのかな?)
どっちにしても、おじい様の優しさが胸に沁みる。
「駒、一つだけ言っておくぞ」
おじい様が、歩みを止めて静かに言った。
「義光は……お前が思っているより、ずっと複雑な奴じゃ。豪快に見えて、実は誰よりも繊細なところがある。……あやつを支えてやってくれ」
(——お父様を支えてくれ、と。自分を追い出した息子のことを、支えてやってくれと言うんだ……)
予想外の言葉にびっくりした。でも——私の心は、一瞬で決まっていた。
「……はい。必ず! 任せてください」
私はニッコリ笑って頷き、山門をくぐった。
歩きながらもう一度だけ振り返ると、おじい様はまだそこに立って、静かに手を振ってくれていた。夕陽のなかの白髪のおじいちゃんは、なんだか神々しくて、でも確かにそこにいてくれる安心感があった。
(——よし。今度来た時は、あの『天正最上の乱』のこと、全部聞いてみよう)
おじい様は『今日は話す時じゃない』って言ったけど、それは裏を返せば『いつかは話してやる』ってことだしね。
(——おじい様は絶対的に味方だ。私の直感がそう言ってるもん)
遠ざかっていく橙色の景色の中、隣を歩く小春が心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「姫様、お顔が真っ赤ですよ。熱でもあるのでは?」
「……寒くなってきたからよ」
「え? でも、さっきまで歩いて汗をかいていらっしゃいましたが……」
「……寒暖差のせいよ。自律神経がびっくりしたの」
「かんだんさ? じりつ……? 姫様、またそんな妙な言葉をどこで覚えられたのですか」
「秘密よ」
私は小さく笑って、それ以上は答えなかった。
山門の向こうには、黄昏に染まる山形城下の営みがどこまでも広がっている。
今夜、お城へ戻ってお父様に「おじい様に会ってきた」と告げたら、一体どんな顔をするだろう。
(——きっと、すごく複雑な顔をするんだろうな)
『豪快に見えて、繊細なところがある』
おじい様の残した言葉が、冷えていく秋の空気の中で、私の胸に温かく響き続けていた。
赤い落ち葉が、また一枚、私の足元をかすめて風の中に消えていった。
天正最上の乱は、最上義光が実父・義守を山形城から追放したクーデターです。
義守は敗れて出家し、龍門寺へ。弟の義時は後に殺されています。
歴史の教科書的には「権力のために父を追った武将」で片付けられがちなこの事件ですが、義守がその後も義光と密かに言葉を交わし続けたという本話の描写は、史料に残る両者の関係性をヒントにしています。
義光は生涯、父の菩提を弔うことを怠らなかったと言います。




