第40話「奥羽、揺れる——諸大名それぞれの秋」(その4)
本話の最後で、駒が再登場です。
数話にわたって奥羽各地の大名たちを追いかけてきましたが、「そろそろ主人公は?」と思っていた方(いるのかな?)お待たせしました。
ちゃんと夜更かしして文机に向かっています。
小春にため息をつかれながら。
【津軽(大浦)為信——「嵐は、強者には追い風よ」】
陸奥田舎郡・大浦城。
津軽の春は、まだ冷たい。岩木山の残雪が、遠くに白く光っている。しかしその白さは、もう溶けかけている。冬が終わる匂いがした。
しかし——大浦城の一室では、その冷たい風とは正反対の、熱い空気が漂っていた。
大浦(津軽)為信が、一人で座っていた。
その表情は、他の奥羽諸国の大名たちとは大きく違っている。
暗くはない。
むしろ——目が、輝いている。
三十八歳。津軽地方をほぼ掌握した実力者。しかしこの男の胸の奥には、まだ満たされていない野望がある。「津軽を、豊臣に認めさせる」——その一点だ。
「最上と伊達が手を結んだ。上杉が庄内に侵攻した。南部は様子を見ている。東北全体が揺れている」
若い側近が、報告を終えた。
為信は、静かに頷いた。
その目の奥で、何かが動いている。
「——南部が外に気を取られている。今こそだ」
側近が、目を輝かせた。「殿、今がその時でしょうか」
「焦るな」
為信が、静かに答えた。
「今すぐ動くのではない。布石を打つのだ」
「布石……でございますか」
「南部信直は今、最上と伊達の動向に気を取られておる。上杉の庄内侵攻にも目を向けておるだろう。さらには豊臣の動向も気にせざるを得ん——今の南部は、四方に気を配らなければならない状況だ。津軽に目を向ける余裕は無かろう」
為信の視線が、遠くへ向いた。
「豊臣が奥羽を動かす日が来る。その時、俺は南部の陰に隠れた国人としてではなく、津軽の独立した当主として秀吉殿に謁見する。そのための布石を、今のうちに打っておくのだ」
側近が、わずかに表情を曇らせた。
「しかし殿……今年も上洛の道は、安東に阻まれました。昨年は南部に。一昨年は比内で。三年続けて——」
「わかっておるわ」
為信が、短く遮った。
しかし——その声に、苛立ちはなかった。
(三年続けて、上洛は阻まれた。しかし道が塞がれるということは、俺がそれだけ警戒されているということだ。警戒される者は、それだけの力を持つということぞ!)
為信は、窓の外に目をやった。
遠くに、小高い丘が見える。かつてそこに、浪岡城があった。北畠氏の城だ。十年前、為信自身が攻め落とした。今はもう、廃墟だ。
(——あの城の主(北畠顕村・北畠親房の後裔)も、かつては奥州の貴種と呼ばれた。しかし時代の流れを読めなかった故、滅んだ。俺は、読み切ってやる)
「殿、なんでも最上の娘御の働きで、東北の地図が変わったとか」
側近が、そう言った。
「……七歳の娘だと」
為信が呟き——わずかに、笑った。
蘆名義広が「諦めるわけにはいかない」と綱にしがみつき、葛西晴信が「政宗が強くなりすぎた」と北上川を眺め、安東実季が「父上ならどうしたか」と細い手を見つめている中で——この男だけが、笑った。
「——面白い。七歳の娘が東北を動かすなら、俺も動かなければならんだろう。その娘が最上と伊達のために動いたというのであれば、俺は、津軽のために動くのみ」
「では、豊臣への使者を……」
「ああ」
為信が、静かに頷いた。
「南部より先に、秀吉殿に顔を売っておく必要がある。道が塞がれるなら、別の道を探せ。家臣を使え。海路でも構わない。準備しろ」
「は!」
側近が、勢い込んで立ち上がった。
大浦城の春風が、窓の隙間から吹き込んできた。
まだ冷たい風だった。しかし為信は、その冷たさを感じていないようだった。その目は、すでに遠くを見ていた。奥羽の先、豊臣の都を。
遠くの廃丘が、春霞の中に薄く滲んでいた。
「嵐は、弱者を飲み込む」
ぽつりと、呟いた。
「しかし——強者には追い風よ」
誰に言うわけでもなく。
ただ、自分の胸の中に刻み込むように。
【俯瞰——「七歳の娘が、奥羽を動かす」】
天正十六年(一五八八年)の秋。
奥羽の各地で、同じ秋に、異なる人間が異なる感情で揺れていた。
会津の蘆名義広は、「残された時間は多くない」と地図を見つめながら、それでも「諦めるわけにはいかない」と言い聞かせていた。陸奥の葛西晴信は、「恨むつもりはない。しかし現実は現実だ」と、広すぎる空の青さに目を細めていた。出羽の安東実季は、「父の手は、もっと大きかった」と、冷たい脇息に触れながら、波の音を聞いていた。陸奥北端の津軽為信は、「嵐は、強者には追い風だ」と、一人笑っていた。
そしてさらに——北奥では南部信直が「今は様子を見る」と夜空の星を数え、仙北では戸沢盛安が「誇りで民は養えない」と震える手で書状を書いていた。
六人の大名が、六つの異なる感情で、同じ秋に揺れていた。
その揺れの中心は、出羽・山形城の奥御殿にあった。
***
山形城の奥御殿。
夜も更けたというのに、私はまだ文机に向かっていた。
「姫様、もうお休みになってください。夜が更けています」
小春の声が、静かに届いた。
「もう少し。もう少しだけ」
筆を止めずに答える。
小春が「はあ……」と盛大にため息をついた。この侍女、私が夜更かしするたびにため息をつく。もう何度目だろう。数えるのをやめた。
今夜の仕事は、秀吉への報告書の草案だ。庄内の戦の経緯を最上家に有利な形で整理して、豊臣政権に先手を打って送る。燭台の光の中でせっせと文字を綴っていく。
……うん、客観的に見て、だいぶシュールな光景だと思う。
でもしょうがない。やらなきゃいけないことがあるんだから。
(——私が動いたことで、東北が揺れている)
筆を走らせながら、心の中でそっと思った。
(わかってる。わかってるよ)
前世の記憶が、静かに語りかけてくる。史学科で学んだこと。蘆名家は来年、摺上原で政宗に滅ぼされる。葛西家は奥羽仕置で改易される。それは、史実だ。
私が大崎合戦を止めたことで、政宗は消耗しなかった。その分、蘆名を滅ぼす力が余計に残った。葛西が追い詰められる速度も、変わったかもしれない。
(——蘆名家が苦しんでいることも、葛西家が追い詰められていることも、知ってる。知ってる。でも——)
でも、私は同じことをしただろう。
お父様が無事だった。大崎合戦で、お父様は傷一つ負わなかった。政宗お兄様との同盟が成った。それが、私の動いた理由だ。それだけだ。
(——これが、歴史改変の代償ってやつか)
燭台の炎が、ゆらりと揺れた。
私は筆を置いて、書き上げた草案をじっと見つめた。
(後悔は——しない)
きっぱりと、心の中で言い切る。
(お父様が無事だった。それだけで、十分すぎる)
うん。後悔しない。絶対しない。
……でも、ちょっとだけ、胸がずきっとするのは、まあ、人間だから仕方ない。
「姫様……」
小春が、また呼びかけた。今度は声が少し柔らかかった。心配してくれてるんだろう。この子、ため息は多いけど、根はいい子なんだよな。
「わかった、わかった。今日はここまで」
草案を丁寧に畳んで、文机の引き出しにしまう。燭台の炎を吹き消した。
部屋が、すとんと暗くなった。
窓の外に、星が瞬いている。出羽の夜空は広い。山に囲まれた盆地の空は、どこまでも高くて、どこまでも深い。
その空の向こうに——会津があり、陸奥があり、秋田があり、津軽がある。
今夜も、奥羽のどこかで、誰かが何かを考えている。私の知らない感情で、私の知らない場所で、揺れている。
(——東北は、広いなあ)
七歳の姫は、暗い部屋の中でぼんやりとそう思った。
「さあ、お布団へ」
小春が言った。
「……うん」
素直に頷く。
今夜は、珍しく、すぐに眠れそうな気がした。
明日も、やることはたくさんある。でも——それは明日の私が考えればいい。
今夜は、寝る。
大浦為信が「南部より先に秀吉に顔を売る」と動いた判断は、史実でも実際に成功します。
為信は天正十八年(一五九〇年)の小田原参陣にいち早く加わり、豊臣政権から津軽の独立支配を正式に認められました。
南部信直にとっては「家臣が独立した」という屈辱的な結果です。




