第40話「奥羽、揺れる——諸大名それぞれの秋」(その3)
【安東(秋田)実季——「父の椅子は、まだ大きすぎる」】
出羽・檜山城。
城の石垣から見下ろすと、遠くに日本海が見える。春の海は穏やかだ。波の音が、風に乗って微かに届く。
その音が、今日の安東実季には、どこか父の声に聞こえた。
父・愛季が死んだのは、去年の春のことだ。享年四十二歳。出羽北部を統一した、安東家中興の祖と呼ばれた人物。その椅子に、今は若き実季が座っている。
十三歳。
評定の間の上座は、まだ慣れない。座るたびに、「父上が座っていた場所だ」という感覚が、じわりと胸に広がる。
「殿、最上と伊達の同盟は本物にございます。上杉戦にて、奴らの連携の確かさが証明されました。安東としても、早急に身の振り方を決めるべきかと」
老臣が、静かに進言した。
「……わかっておる」
実季が答えた。
しかし内心では——(父上が生きていれば、どう判断しただろう)という問いが、ぐるぐると回っていた。
(父上は、最上とも伊達とも上杉とも、巧みに距離を保ちながら安東家を守ってきた。どの勢力にも肩入れしすぎず、どの勢力とも対立しすぎない——それが父上の戦略だった。しかし今……最上と伊達が手を結んだ。その均衡が崩れてしまった。父上の戦略が、今度は通用しない……)
「殿、まずは家中を固めることが先決です。外の動きに振り回されては……」
「わかっている。しかし……外の嵐が、家中を固める前に来るかもしれん」
実季が、静かに答えた。
外の嵐——それは比喩ではなかった。
従兄の通季が「上国湊安東氏の復興」を掲げて兵を集めている。戸沢氏が通季に与した。南部信直が、この混乱に乗じて比内郡方面へ触手を伸ばしてきている。父が死んだだけで、これだけのことが同時に起きた。
(——父上が生きていれば、通季殿はこんな動きをしなかっただろう。南部信直も、隙を見せなかっただろう。父上という存在が、すべてを抑えていた)
別の老臣が「殿、最上の義光殿には、七歳の娘御がいるとか。その娘御が、大崎合戦の和睦を仲介し、今回の上杉との戦いでも……」と噂を伝えた。
「……七歳の娘が」
実季が、ぽつりと呟いた。
(——七歳の娘が、東北を動かした。その娘が動いた年に、父上は亡くなった。そして私は……父の椅子に座っている。内には通季殿の反乱、外には南部の圧力を抱えたまま)
実季は、自分の手を見た。
まだ若い、細い手だった。
(——父上の手は、もっと大きかった。この上座に座る時、父上の手は、脇息をしっかりと掴んでいた。揺るぎなく、確かに)
実季は、そっと脇息に触れた。
漆塗りの表面は、冷たかった。
父の手の温もりは、もうどこにもない。
(私の手は……まだ、この脇息を掴みきれていない)
七歳の娘が奥羽を動かした、その同じ年に——十三歳の自分は、内憂と外圧の両方を抱えたまま、父の椅子の大きさに、まだ戸惑っている。
その重さが、実季の胸に、静かに刺さった。
「殿……」
老臣が、心配そうに呼びかける。
「……いや、何でもない」
実季が、首を振った。
「大浦為信殿への使者の件は、急かせ。南部信直と大浦殿は対立している——それが、今の我らにとっての時間だ」
老臣たちが、静かに頭を下げた。
しかしその言葉は、どこか自分に言い聞かせるように、空虚に響いた。
波の音が、また一つ、遠くから届いた。
父の声は、もう聞こえなかった。
安東実季の父・愛季は、出羽北部に割拠していた湊安東氏と檜山安東氏を統合し、安東家を一代で大きく飛躍させた傑物でした。
その死は、まさに「大黒柱が抜けた」という言葉通りの衝撃を家中に与えました。
戦国時代、「家督継承の直後」は最も危険な時期のひとつです。
先代の威光で抑えられていた家臣の不満や、隣国の野心が一斉に噴き出す——本話の実季が直面している状況は、まさにその典型でした。
興味深いのは、実季が最終的に豊臣政権にいち早く接近し、生き残りを図った点です。
「大浦為信への使者」という本話ラストの一手も、その布石の一つ。十三歳の少年が、父の不在の中で必死に算盤を弾いていた——その姿が、七歳の駒姫と静かに重なります。




