第38話「東北諸大名の動揺①——南部信直の警戒」(後半)
翌日の評定が終わった後のことだ。
廊下を歩く信直の後ろから、足音が追いついてきた。
「殿、少しよろしいですか」
振り返ると、九戸政実が立っていた。
三十代半ば、引き締まった体躯の男だ。顔立ちは整っているが、その目には常に何か燃えているものがある。武勇において南部家随一と言われる男で、戦場では信直の右腕として幾度も功を上げてきた。しかし——この男の「燃えているもの」は、時として信直には御しにくいものになる。
それを、信直は長年知っていた。
「政実か。何だ」
「殿、昨日の評定で『今は動けん』とおっしゃいました」
「ああ、言った」
「……殿、いつまでも様子を見るだけでは、南部家は遅れを取ります」
廊下に、しばしの沈黙が落ちた。
信直は足を止めた。振り返って、政実の目を真っ直ぐに見る。
その目の奥に、「殿の慎重策が、南部家を弱くする」という不満の火が、確かに燃えているのが見えた。消そうとして消えるものではない。この男の芯に根付いた、武人としての矜持から来る炎だ。
「政実、お前の気持ちはわからんでもない」
信直は、静かに言った。感情を抑えた、しかし確かな重みのある声だ。
「しかし……今は動けない」
「なぜですか」
「忘れるな、関白様の惣無事令があるのだ。我々が軽率に動けば、即座に天下の法を軽んじた咎めを受けることになる。最上殿とて、上杉との戦で惣無事令違反を問われずに済んだのは、秀吉公へ先手を打って言い分を言上していたからこそ。我々には今、その先手を打つ材料がない。材料なしに動けば——豊臣に口実を与えるだけよ」
政実が、わずかに口を引き結んだ。
反論したい気持ちが、その顔に滲んでいる。しかし信直の言葉の論理は、崩せない。武勇で解決できる問題ではないことは、政実自身も分かっているはずだ。頭では分かっている。しかし——頭で分かっていても、腹の底の火が収まらない。それがこの男だ。
「……御意」
政実が、静かに頭を下げた。
その「御意」は、昨日の重臣たちの「御意」とは、少し温度が違った。従いながら、納得していない。表面上は引き下がりながら、内心では「それでも……」という火が消えていない。
信直の内心で、静かな懸念が動いた。
(——政実。お前の武勇は本物だ。この南部家に、お前ほどの武将はいない。しかし……今は武勇で解決できる問題ではない。それが分かるまで、お前には少し時間がかかるかもしれない。いや——分かっていても、お前はその火を消せないかもしれない)
政実の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
信直は、その背中をしばらく見送った。
翌日の評定で、家臣の一人が口を開いた。
「殿、一つ気になる噂を耳にしましたが」
「何だ」
「最上の義光殿には、七歳になる娘御がいるとか。その娘御が……大崎合戦の和睦を仲介し、今回の上杉との戦いでも秀吉への報告書を起草したと、そういう噂が」
評定の間に、微妙な空気が流れた。
信直が、眉をひそめた。
「……七歳の娘が?」
「はい。最上義光殿の次女・駒姫様とか」
「そんな馬鹿な話があるか」
信直は、一蹴しようとした。七歳の幼女が外交を仕切る。そんな話が、この戦国の世にあるはずがない。
しかし——。
(——しかし、最上が伊達と手を結んだのは事実だ。上杉との戦いで庄内を守ったのも事実だ。秀吉への報告書が先に届いたのも事実だ)
事実は、事実だ。
どれほど信じたくなくとも、起きたことは起きたことだ。信直の内心で、「信じたくない」という感情と「事実は事実だ」という現実認識が、静かにぶつかり合った。
「……まあ、どちらにせよ」
信直は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「最上は侮れん。義光だけでも十分に厄介なのに、その背後に聡い者がいるとすれば——なおさらだ」
そこで、政実が口を開いた。
「殿、七歳の娘が仕切っているというなら……むしろ付け入る隙があるのでは。たかだか七歳の幼女の知恵など、限界がありましょう。いずれは——」
「政実」
信直が、静かに遮った。
政実が口を閉じる。
「七歳であろうと、結果は結果だ。伊達と最上が手を結んだ。上杉を退けた。秀吉への報告書が先に届いた。これらは全て、事実として起きたことだ。それを成し遂げた者が七歳の幼女であろうと、七十歳の老将であろうと——結果の重さは変わらない」
政実が、わずかに唇を噛んだ。
「……御意」
今日三度目の「御意」だった。
しかしその目の奥の火は、さっきよりも少しだけ、強くなっていた。信直はそれを見て、何も言わなかった。言葉で消せる炎ではないことを、長年の付き合いで知っていたから。
夕暮れの三戸城。
信直は一人で、城壁の上に立っていた。
北の空を見上げる。鉛色の雲が、低く垂れ込めている。その重さが、そのまま胸の上に乗っているような気がした。もうすぐ初雪が来るだろう。北奥の冬は、早く、深く、長い。
(——今は動かず、機を待つ。それが、今できる最善の策だ)
静かな決意が、胸の奥に落ちた。
消極的な選択だ。武将として、動けないことへの苦さがある。しかし——動けない今、できることをする。力を蓄える。情報を集める。豊臣が東北を動かす日に備える。それしかない。
(奥州の地図が、変わりつつある。伊達と最上が手を結び、上杉は庄内の一角を掠め取った。関白(秀吉)が小田原の北条を揉み潰した後、その矛先が必ずやこの奥羽へ向けられる。その時——南部家はいずこに立っているのか)
北の空に、最初の星が一つ、瞬き始めた。
鉛色の雲の切れ間から、小さく、しかし確かに光っている。消えそうで消えない、頑固な光だ。
(——まだ、猶予はある。その間に、力を蓄えるしかない)
信直は、静かに城壁から目を離した。
廊下の向こうで、政実の足音がする。あの男は今夜も、「動けない」という現実に苛立ちながら、剣の素振りでもしているのだろうか。その足音は、いつもより少しだけ、速い気がした。
(政実。お前の不満は、分かる。しかし——今は、まだだ)
「まだ」が、いつまで続くのか。
その答えも、信直にはまだ出せなかった。
北奥の夜が、静かに、しかし確実に、深まっていく。
出羽の山形城では今頃——噂の七歳の姫は、何を考えているのだろう。
信直には、想像もつかなかった。
ただ一つだけ分かることがある。伊達と最上が手を結んだ。上杉を退けた。秀吉への報告書が先に届いた。それだけの事実が、北奥の武将の胸に、小さな棘のように刺さったまま抜けない。
三戸城の武将は、まだ半信半疑のまま、鉛色の夜空を見上げていた。
雲の切れ間の星が、また一つ、増えた。
本話に登場する九戸政実は、この物語の時点ではまだ南部信直の重臣ですが、史実では天正十九年(一五九一年)に「九戸政実の乱」を起こし、豊臣の軍に鎮圧された人物です。
その乱は、秀吉の小田原征伐後に行われた「奥羽仕置」——東北大名の領地再編——に反発したものでした。
南部家内部の権力争いと、豊臣政権への抵抗が複雑に絡み合った反乱で、鎮圧には六万を超える大軍が動員されています。




