第39話「東北諸大名の動揺②——戸沢盛安の決断」(前半)
三戸城の南部信直が鉛色の空を見上げていた頃——。
出羽の山々は、燃えていた。
角館城。仙北郡、戸沢家の本拠。奥羽山脈の懐深くに抱かれた、静かな山城だ。
山形城下の農村が刈り株の茶色い大地に変わり始める頃、ここ仙北の山肌はまだ赤と橙と黄に燃え盛っている。楓の赤、朴の木の黄、松の深い緑——それらが幾重にも重なって、城壁の石垣の向こうに広がる山を、まるで巨大な錦の屏風のように仕立てている。北奥の三戸城が鉛色の空の下で息をひそめているのとは、まるで違う景色だ。
しかし——城の中の空気は、その山の色とは正反対だった。
角館城の評定の間は、朝から重かった。
重い、というのは比喩ではない。文字通り、空気が重い。重臣たちが一人ずつ席に着くたびに、その重さが少しずつ積み重なっていく。誰も余計なことを言わない。誰も目を合わせない。それぞれが、昨夜一晩かけて考えてきた「言いたいこと」を、胸の奥にしまい込んだまま、ただ上座を見ている。
上座に座るのは、戸沢盛安。二十七歳。
若い。戦国の武将としては、まだ若い部類に入る。しかしその顔には、年齢に不釣り合いなほど深い、武将の目がある。引き締まった体躯、日焼けした肌、わずかに傷の残る左の頬——これは三年前の小競り合いで受けた傷だ。「武勇の将」と呼ばれるこの男は、戦場では誰よりも前に出る。家臣たちは「殿の背中を追いかけるのが精一杯だ」と笑いながら言う。
しかしこの男の強さは、剣の腕だけではない。
感情を切り離して現実を見る、その目の冷たさにある。
盛安は評定の間に入る前から、もう答えを出していた。
昨夜、一人で窓の外の山を見ながら、長い時間をかけて考えた。感情を排して、算術として考えた。石高、兵数、同盟関係、地理的条件——それらを一つずつ並べて、丁寧に検討した。そして出た答えは、一つだけだった。
「——義光殿に従う」
盛安が、静かに口を開いた。
評定の間が、しんと静まり返った。
「今夏の庄内の戦の話は、皆も聞いておろう。最上と伊達の同盟が絵空事ではないことが、あの戦で証明された。我々の隣で、それが起きた」
重臣たちが、ざわめいた。「殿、それは……」という声が、さざ波のように広がる。
「わかっている、三郎左」
老臣の三郎左衛門——盛安の父の代から仕える、戸沢家随一の古参だ——が口を開きかけるより早く、盛安が静かに遮った。
三郎左衛門は六十近い老臣で、白髪交じりの頭、深く刻まれた皺、しかし背筋はまだ真っ直ぐだ。先代・道盛の時代から戸沢家を見てきた男で、「先代様はこうされた」という言葉を、誰よりも重く持っている。
「先代様は最上には頭を下げなかった。それが戸沢家の誇りだったことも、わかっている。しかし——」
盛安は、そこで一度、窓の外に目をやった。
燃えるような秋の山。その向こうに、最上の領地がある。山形城がある。義光殿がいる。
「——最上だけなら、まだ戦える。戸沢家には武勇がある。義光殿と互角に渡り合える武将も、兵も、ある程度は揃っている。だが——最上と伊達が組んだ今、戸沢家が逆らえば二方向から挟まれる。それは滅亡を意味する。民が死ぬ。それだけは、避けなければならない」
重臣たちが、再びざわめいた。「殿、それでは……」「戸沢家の武士として……」という声が、あちこちから上がる。
盛安は、その声を黙って聞いていた。
怒らない。急がない。家臣たちの感情が落ち着くのを、静かに待つ。
(——感情は、わかる。わしも同じ気持ちだ。義光殿に頭を下げることへの抵抗感は、本物だ。消えない。しかし感情で判断する武将は、民を道連れに死ぬ。それだけは、できない)
評定が終わった後、盛安は一人で私室に戻った。
角館城の私室は、こじんまりとした造りだった。
山形城の広い執務室とは比べるべくもない。しかしこの狭さが、盛安には合っていた。余計なものが視界に入らない。考えるべきことだけを、考えられる。
窓の外に、色づいた山が見える。
夕暮れが近づいて、山の色がさらに深くなっていた。昼間の鮮やかな赤と橙が、夕陽を受けて暗い朱色に変わっていく。その色の変化が、何かを燃やし尽くしていくような、静かな迫力を持っていた。
盛安は地図を広げなかった。
地図を広げて数字を並べれば、答えは出る。石高、兵数、同盟関係——どれを取っても、戸沢家が最上・伊達連合に逆らえる根拠はない。そんなことは、評定の前からわかっていた。昨夜も、一晩かけて同じ計算を何度も繰り返した。答えは毎回、同じだった。
だから今夜、盛安が考えていたのは別のことだ。
(——戸沢家は、最上家の隣国として生きてきた。義光殿の父・義守様の時代から、最上の影響下に置かれてきた。それが戸沢家の宿命だ)
「宿命」という言葉は、好きではない。
宿命に甘えれば、人間は思考を止める。「仕方ない」という言葉で、考えることをやめる。それは武将として、あってはならないことだ。しかし——今夜だけは、その言葉を使う。使わなければ、自分の心を整理できなかった。
(義守様の時代の最上と、今の義光殿の最上は、もはや別物だ。伊達と手を結び、上杉を退け、秀吉への報告書を先手で送った。あの男は変えた。最上家を、根本から変えた)
盛安の視線が、窓の外の山に戻った。
夕暮れの山が、最後の光を受けて静かに燃えている。
(義光殿に逆らうのは、今は得策ではない。いや、これからも当分は。あの男が伊達と組んでいる限り、戸沢家単独では太刀打ちできない)
そこで、廊下から足音が聞こえてきた。
小さな、軽い足音だ。
「——兄上」
障子の向こうから、少年の声がした。
盛安は、わずかに表情を和らげた。
「入れ、光盛」
障子が開いて、少年が顔を覗かせた。戸沢光盛、十二歳。盛安の弟だ。まだ元服前の、丸みの残る顔をしている。しかしその目には、兄と同じ、戸沢家の武将の目の片鱗が宿っていた。
「……兄上は、本当に義光殿に従うのですか」
光盛が、真っ直ぐに問うた。
子供らしい、遠慮のない問いだ。評定の間では誰も直接そうは言わなかった。しかしこの弟は、言う。それがこの少年の、良いところでもあり、危ういところでもある。
「ああ、従う」
盛安は、静かに答えた。
「……悔しくないのですか」
「悔しい」
即答だった。
光盛が、少し驚いた顔をした。もっと複雑な答えが返ってくると思っていたのかもしれない。
「悔しい。本当に悔しい。しかし——」
盛安は、窓の外の山を見た。
「お前が大きくなった時に、この角館がまだあるように。田んぼがまだあるように。民がまだ笑っていられるように。そのために、今は頭を下げる。それだけのことだ」
光盛が、しばらく黙っていた。
子供の目で、兄の横顔を見つめていた。その目に、何かが揺れている。反論したい気持ちと、納得しかけている気持ちが、ないまぜになっている顔だ。
「……わかりました」
それだけ言って、光盛は静かに障子を閉めた。
足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
盛安は、その足音が聞こえなくなるまで、じっと窓の外を見ていた。
(——光盛。お前が当主になる日が来ないように、わしは生き残る。しかし……もしもの時は、お前が戸沢家を頼む)
その「もしも」が、思ったより早く来るとは——この時の盛安には、知る由もなかった。




