第37話「『塩水選』——強い種籾だけを選ぶ」(後半)
そのとき。
「姫様」
低い、落ち着いた声が聞こえた。
農民たちの中から、一人の老人が前に出てきた。白髪交じりの頭、日焼けで深く刻まれた皺、大きくゴツゴツした手。五十年、六十年と土を耕してきた人間だけが持つ、あの手だ。
「佐助殿だ……」
鮭延殿が、小さく私に耳打ちした。「この村で一番の古老です。農民たちの信頼が厚い」
(——つまり、この人が頷けばみんなが動く。現代風に言えばオピニオンリーダーってやつだ。ここが正念場だ)
私は、佐助殿の目を真っ直ぐに見た。
その目は、疑念に満ちていた。でも——敵意じゃない。「本当のことを知りたい」という、真剣な目だ。長く生きた人間の目は、嘘をつかない。
「姫様、本当にこれだけで稲が強くなると言われるのですか」
佐助殿が、静かに問うた。
「こんな簡単なことで変わるなら、なぜ今まで誰もやらなかったのか。俺は五十年、田んぼを作ってきた。親父からも、爺様からも、そんな話は聞いたことがねえ」
農民たちがざわめいた。「そうだ」「五十年の経験だぞ」という声が、さざ波のように広がる。
お父様が、わずかに眉を動かした。「どう答える」という目で、こちらを見ている。
私は、一拍置いた。
焦ってはいけない。ここで言葉を急いだら、負けだ。
「佐助殿、あなたの五十年の経験は、大変尊いものです」
はっきりと言った。
「田んぼのことを、私などよりずっとよく知っておられる。稲の育て方、土の性質、水の流し方——私には到底かなう所ではありません」
佐助殿が、わずかに目を細めた。
「でも——この塩水選は、ただ、今まで佐助殿がご存じ無かったというだけで、効果は必ずあります」
「……」
「佐助殿もそのご経験からお気づきではないですか? 籾の中には、強いものと弱いものが混じっています。弱い籾を植えても、弱い苗しか育たない。強い籾だけを選べば、強い苗が育つ。それだけのことです。難しい理屈ではありません」
佐助殿が、黙っている。
「来年の春、試してみてください。もし効果がなければ——」
私は、少し考えた。
(七歳の私に、何ができる? お金を払うことも、田んぼを補償することも、できない。でも——私にできることが、一つある)
「——私が、また来ます」
佐助殿が、わずかに目を細めた。
「来年の春も、夏も、秋も。結果が出るまで、何度でも来ます。うまくいかなければ、一緒に考えます。それが、私にできることです」
秋風が、庭先の枯れ葉を静かに舞い上げた。乾いた葉が、くるくると宙を舞って、土の上に降りていく。
「……姫様が、また来てくださると」
佐助殿が、ゆっくりと繰り返した。その目の色が、わずかに変わった。疑念の奥に、何か別のものが灯り始めている。
「七歳の姫様が、農民どもの田んぼに、また来てくださると」
「はい、来年は八歳になりますが……」
迷わずに答えた。
「来年の秋、結果が出ます。それで判断してください」
長い沈黙。
佐助殿が、私の目をじっと見つめていた。七歳の、小さな姫の目を。
(——見てください、佐助殿。私は本気です。この目が嘘をついていないことは、あなたの五十年の経験が分かるはずです)
「……わかりました」
佐助殿が、静かに頷いた。
「姫様を……信じてみましょう」
その一言が、空気を変えた。
農民たちが、ざわめきから静けさへと移っていく。「佐助じいが言うなら」「やってみようか」という声が、小さく広がった。
鮭延殿が、静かに息を吐いた。
何も言わなかった。ただ、一度だけ、深く頷いた。
その横で、お父様が腕を組んだまま、複雑な顔をしていた。
「……我が娘は、庭先で膝をついて桶を覗き込むような姫ではないはずだが」
(——先ほど「わしがやる!」と言い出したのはどなたでしたっけ、お父様)
もちろん、口には出さない。七歳、処世術は大事。
「殿」
鮭延殿が、静かに言った。
「姫様は、最上の宝でございます」
お父様が、短く答えた。
「……わかっておる」
その目が、静かに、誇らしげに輝いた。
実演を終えた後、私は農民たちに向かって最後の言葉を告げた。
「来年の春から、これを全領で行って欲しいのです。一つの村でも多く」
農民たちが、頷いた。
佐助殿が、前に出た。
「姫様、来年の春、必ず試してみます。そして——秋に、結果をご報告申し上げます」
「ありがとうございます」
私は、深く頭を下げた。
後ろで小春が「姫様っ」と小さく慌てた声を出した気がしたけど、気にしない。七歳の姫が農民に頭を下げる。それの何が悪いんだ。
「必ず、良い結果が出ます」
帰り道。
秋の夕暮れの中、農村の刈り株が橙色の光を受けて静かに輝いていた。長く伸びた影が、土の上をゆっくりと流れていく。
(——第一歩は踏み出した)
歩きながら、心の中で呟く。
(次は苗代の温室化。そして水利の整備。一つずつ、確実に。来年の秋、佐助殿が「本当に違った」と言ってくれるように)
背後では、お父様と鮭延殿が何か話している。小春が、私の袖をもう一度念入りに確かめながら「塩水は本当に手が荒れるんですから……」と呟いている。
うん、小春。ごめんね。でも止まれなかった。
空の高いところを、雁の群れが南へ向かって飛んでいった。その編隊が、夕焼けの中に溶けていくのを、私はしばらく目で追った。
(——来年の春が、楽しみだ)
秋の夕暮れが、出羽の大地を黄金色に染めていた。
「塩水選」は、実際に現代でも使われている種籾の選別法です。
塩水に種を浸けて沈んだ充実した種だけを使う——この方法が日本で広く普及したのは、実は明治時代以降のことです。
江戸時代の農政家・宮崎安貞が農業技術書『農業全書』を著したのは元禄十年(一六九七年)のこと。
この書物が画期的だったのは、技術の正しさだけでなく、「農民が実際に試せるよう、平易な言葉で書いた」点にありました。
どれほど優れた知識も、届かなければ意味がない——駒姫が「卵が浮く程度」という言葉を選んだのも、まさにその精神です。




