第37話「『塩水選』——強い種籾だけを選ぶ」(前半)
秋の収穫が終わった山形城下の農村には、独特の空気が漂っていた。
なんというか——ほっとしたような、それでいてちょっと寂しいような、あの感じ。働き続けた手がようやく休める安堵と、黄金色の季節が終わってしまった名残惜しさが、ないまぜになってる。
刈り取りを終えた田んぼが、整然と広がっている。あれほど輝いていた稲穂は、もうどこにもない。残るのは、刈り株が規則正しく並ぶ茶色い大地だけ。
でも——この静かな土の下に、来年の春が、まだ息をひそめて眠っている。
私は、とある農家の庭先に立っていた。
鮭延殿の手配で、村の農民たちが十人ほど集まっている。みんな日焼けした顔に、どこか困惑したような表情だ。無理もない。山形城の姫様が突然農村にやってきて、「田んぼの話をしたい」などと言い出したのだ。戸惑うなという方が無理な話だ。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます」
私は、できるだけ落ち着いた声で言った。
七歳の声は、どうしても高くて幼く聞こえる。それを少しでも補うために、ゆっくり、はっきり、一語一語を丁寧に置いていくように話す。転生してから身につけた、私なりの処世術だ。地味に重要。
「今日は、来年の春の種まきに向けて、一つだけ試していただきたいことがあります。難しいことではありません。特別な道具も、費用も、ほとんどかかりません」
農民たちが、顔を見合わせた。
(——言葉だけじゃ信じてもらえない。それはわかってる)
農民たちの目を見れば、すぐわかる。彼らは五十年、百年と積み重ねてきた経験を持っている。七歳の姫の言葉を、はいそうですかと信じるはずがない。
(だから——見せる。百聞は一見に如かず。これはどの時代でも変わらない真理だ)
私は、鮭延殿に目で合図した。
鮭延殿が静かに頷いて、従者に指示を出す。従者が、大きな木の桶を二つ、庭先に運んできた。それから、塩の入った袋と、種籾の入った籠も。
準備は昨夜のうちに整えておいた。完璧だ。
「では、始めます」
桶に水を張る。袋から塩を取り出し、ゆっくりと溶かし始めた。
「塩を入れすぎると籾が傷みます。このくらいの濃さで——」
農民たちに向かって説明しながら、塩水をかき混ぜる。お父様も腕を組んで見ている。鮭延殿が傍らに立っている。小春が、心配そうな顔でこちらをじっと見ている。
「目安は、卵が浮く程度です。今日は卵がないので、私の勘で合わせますが」
(前世の知識によれば比重一・一三程度。でも「比重」なんてこの時代には通じない。「卵が浮く程度」という表現が一番伝わる。知識は、相手に届く言葉に変換して初めて意味を持つ。これ大事)
塩水ができた。
私は籠から種籾を一掴み取り出し、桶の中にそっと入れた。
たぷん、と小さな音がした。
数秒後——。
種籾の一部が、ふわりと水面に浮かんだ。そして残りは、ゆっくりと、静かに底へ沈んでいった。
「……おお」
農民たちの中から、小さな声が漏れた。
「浮いた籾は、中身が充実していない弱い籾です。これは捨てます」
水面に浮かんだ種籾を指差す。次に、桶の底を指差す。
「沈んだ籾が、強い籾です。発芽する力が強く、丈夫な苗に育ちます。これだけを使います」
底に沈んだ種籾をよく見せるために、私はその場に膝をついた。桶を覗き込んで、底の種籾を指先でかき分けながら「ほら、ここに沈んでいるのが分かりますか」と農民たちに示す。
「駒っ!」
背後から、お父様の声が飛んできた。
振り返ると、お父様が眉間に深い縦皺を刻んで、こちらへ大股で歩いてくる。
あ、これは親バカモードに入った顔だ。
「庭先とはいえ、土の上に膝をついてはいかん! 着物が汚れるではないか!」
「お父様、底に沈んだ籾を見せるには、この角度でないと——」
「いいから立て、駒! 立ちなさい!」
(——お父様、農民の方々が見ていますよ……)
心の中でそっとため息をつきながら、立ち上がった。
農民たちが「殿が……」という顔で、ぽかんとしている。鮭延殿が、後ろで小さく咳払いをした。
そして私は、沈んだ種籾を取り出そうと、桶の中に手を差し入れた。
ざぶん。
袖がずぶりと塩水に浸かった。
「姫様! お袖がっ……!」
今度は小春が、悲鳴のような声を上げた。
「塩水は手が荒れます! お袖も! 姫様、お手を出してください、すぐに拭きます、早く早く——!」
懐から手拭いを取り出して猛ダッシュで駆け寄ってくる小春。その顔が、真っ青だ。
(——ごめん小春。でも籾を取り出さないと実演が終わらないんだよ……)
「大丈夫、少しくらい塩水に浸かっても——」
「大丈夫じゃありません! 姫様のお手が荒れたら私はどうすれば……!」
小春が私の手を取って、ぐいぐいと拭き始めた。その目が、うっすら潤んでいる。
(あ、これは本気で心配している顔だ。申し訳ない……)
そのとき。
「では、わしが代わりに実演してやろう!」
お父様が、突然そう言い出した。
全員が、一瞬固まった。
私も。鮭延殿も。小春も。農民たちも。
「桶に手を突っ込んで籾を取り出せばよいのだろう! 駒、やり方を教えろ! 父上がやってやる!」
(——え、待って、お父様、何を言い出すの)
「お父様、落ち着いてください」
「落ち着いておる! 駒の手が荒れるくらいなら、わしが自ら——」
「お父様が実演されても、農民の方々は困惑するだけだと思います」
ぴたっ、とお父様が止まった。
鮭延殿が、後ろで再び小さく咳払いをした。農民たちが「殿が……?」という顔で、二度目のぽかんをしている。
「殿……」
鮭延殿が、静かに、しかし確かに笑いをこらえた声で言った。
「姫様のおっしゃる通りかと存じます」
「……鮭延」
「は」
「お前は今、笑っておるな」
「滅相もございません」
(——絶対笑ってる)
心の中でそっとツッコミを入れながら、農民たちに向き直った。
小春が、私の袖を丁寧に拭き終えて「もう……」と小さく呟いている。呆れと心配が半々の顔だ。
「皆さん、改めて」
着物の袖が少し湿っているのは、見なかったことにする。できるだけ平然とした顔で続けた。
「浮いた籾は捨てます。沈んだ籾だけを使います。それだけです」
「……本当に、それだけですか、姫様」
若い農民が、目を丸くして言った。
「それだけです。でも、来年の春、必ず違いが出ます」
「こんな簡単なことで……」
別の農民が、呟くように言った。「なぜ今まで誰もやらなかったのか」
(——そう。こんな簡単なことで)
胸の奥で、何かが静かに燃えた。
(知っているかどうかで、来年の収穫が全然違う。知識って、そういうものだ。知っている人間には当たり前で、知らない人間には一生気づかない。その差が——命を分けることがある。だから私は、ここにいる)




