第36話「駒姫の新たな決意——『東北を、飢えない土地にする』」
「やませ」は、今日でも東北農業の天敵とされています。
品種改良の進歩により農業被害は激減していますが、オホーツク海高気圧から吹き込む冷湿な北東風は、夏の気温を著しく下げ、稲の生育を妨げます。
天明の大飢饉(1782〜1788年)や昭和9年の大凶作など、東北を繰り返し襲ってきた飢饉の多くに、このやませが深く関わっています。
翌朝。
私はお父様の執務室の前に立っていた。
廊下の冷たい板張りの感覚が、足の裏から伝わってくる。秋の朝って、こういう足元からじわじわと攻めてくるんだよね。ひんやりとした空気が、着物の裾の隙間から意地悪に忍び込んできて、思わず身震いしそうになる。
でも、ここで怯んでいる場合じゃない。
障子の向こうから、すでに何やら書状を捌く音と、お父様の「ふむ」「なるほど」「これは後でよい」という声が聞こえてくる。朝から全開だ。さすが羽州の狐、働き者である。昨夜あれほど激しい戦後処理をこなしたはずなのに、もう次の仕事に取りかかっている。この人の体力と精神力は、一体どこから来るのだろう。
(——よし、突撃するか)
私は障子を、遠慮なく開けた。
「お父様、少しよろしいですか」
義光が顔を上げた。その精悍な顔に、「お、駒か。何だ?」という表情が浮かぶ。執務室には氏家守棟殿と鮭延秀綱殿も同席していた。二人とも、私の突然の乱入に驚きつつも、どこか微笑ましそうに目を細めてくれる。
氏家殿は、いつも通りの涼しい顔だ。何が来ても動じない、最上家の知将。鮭延殿は、庄内からの帰還でまだ少し疲れが残っているはずなのに、背筋はきちんと伸びている。武人というのは、こういうものなのだろう。
「おう、駒。今日は何だ」
「奥羽の田んぼを、変えましょう!」
シィィィン……。
三秒ほどの、完璧な沈黙が落ちた。
お父様が、手に持っていた書状をゆっくりと机に置いた。氏家殿が、ピクリとわずかに眉を上げた。鮭延殿にいたっては、「……は?」と完全にフリーズした顔をしている。
——この反応は、予想通りだ。
「……駒」
「はいっ、何でしょう!」
「お前は昨日まで、秀吉への書状だの上杉への対策だのを熱心に考えておったよな?」
「はい、考えていました」
「それが、今日は田んぼか?」
「はい」
義光が、額に手を当てた。この子は一体全体、脳みその中に何を詰め込んでいるんだ……という、最高に困惑した顔。親バカ全開の柔らかい顔と、「……いや、しかしこの子の言うことだからな」という武将の顔が、ないまぜになっている。私はこの顔を知っている。お父様がこの顔をするとき、必ず最後には「続けよ」と言う。
「……続けよ」
よし。
「お父様、奥羽は今、二つの脅威にさらされています。一つは、ご存知の通り、上杉と秀吉様。もう一つは——飢饉です」
「飢饉」
お父様の声が、わずかに低くなった。これは「子供のたわごと」として聞き流す声じゃない。真剣に「聞いている」という声だ。
「お父様、夏に吹くあの『やませ』をご存知ですよね?」
お父様の目が、すうっと刃物のように鋭くなった。
「無論だ。北東から吹きつけてくる、あの忌々しい冷たい風だ。あれが夏に来ると、稲が実らない。農民どもが涙を流して飢えることになる、最悪の悪風だ」
「その通りです。そして——これからの数十年、この奥羽ではあの風が今までよりもずっと強く、もっと長く吹き荒れるようになります」
氏家殿が「……それは、一体どこからの注進ですか」と静かに問うた。
さすが氏家殿だ。お父様が感情で動くなら、氏家殿は根拠を問う。この二人が揃っているからこそ、最上家はこれまで群雄割拠の戦国を生き残ってこれたんだと心から思う。
「書物で」と私は答えた。「気候の繰り返しについて記された、古い記録です。これからの奥羽は、夏が短くなり、冷害が増える。それが、避けては通れないこれからの奥羽の現実です」
嘘は言っていない。ただ、その「書物」が前世の気象学の教科書だというのは、さすがに言えないけれど。
「戦に勝っても、民が飢えれば最上は滅びます。どれほど強い城も、米がなければ守れません。今から手を打たなければ——」
「……続けよ」
義光の声が、一段低くなった。
さっきの「続けよ」とは、温度が違う。これは「面白い話を聞かせてみろ」ではなく、一国の主として「本気で策を聞く」という声だ。お父様は、こういう時に本当に武将の顔になる。娘を溺愛する父親の顔が、すっと引いて、出羽の支配者としての覇気がじわじわと溢れ出してくる。
私は、昨夜書いた紙を広げた。
「農業改革の骨格は、三本柱です」
指を一本立てる。
「第一に、種の改良。塩水選という方法を使います。種籾を塩水に浸けて、浮いた軽い種を捨て、沈んだ重く強い種だけを選ぶ。これだけで、発芽率と収穫量が大きく上がります」
義光が「……塩水に種を浸ける?」と繰り返した。眉が、わずかに動く。武将としての直感が、「こいつは何かあるぞ」と察知している顔だ。
「はい。水に浮くような種は中身が充実していない、弱い種です。底に沈んだ種だけを厳選して植えれば、強い苗が育ちます。ただ選ぶだけでいい。道具も費用も、ほとんどかかりません」
指を二本にする。
「第二に、苗代の改善。苗を育てる場所を、より暖かく保つ工夫をします。簡単なもので言えば、藁や竹で防風柵——風よけを作るだけでも違います。冷たい風から苗を守ることで、冷害に強い苗を育てられます。これも、農民の方々が今すぐ手に入れられる材料だけで、できることです」
指を三本にする。
「第三に、水利の整備。やませが吹く時期の冷たい水が直接田んぼに入ると、稲の根が傷みます。水路をあえてグネグネと迂回させて、日の光で水が少し温まってから田んぼに入るように工夫します——これも、冷害対策になります。水路の形を変えるだけでいい。大規模な工事は必要ありません」
言い終えて、私はふぅーっと大きく一度息を吸った。
またしても、沈黙。
だけど今度は、さっきとは違う種類の沈黙だった。さっきの沈黙は「突然この子は何を言い出すんだ」という戸惑いの沈黙だった。でも今のは違う。三人とも、それぞれの頭の中で、私の言葉を転がしている。私の提示した三本柱を吟味し、検討している、濃密で前向きな沈黙。一国の主として、重臣として、実務家として。それぞれの視点から、私の言葉を頭の中で転がしているんだ。
最初に口を開いたのは、鮭延殿だった。
「……姫様は、本当にずっと先を読まれておられるのですね」
その声は、低く、真剣だった。庄内の戦場で何度も命を張ってきた武骨な武将が、畑違いの農業の話に素直に驚いている。その目に、戦場で敵将を見るのとは違う、静かな畏敬の色があった。
「目先の戦だけではなく……その先にある民の暮らしまで見据えておられるとは。このような発想、私のような無骨者には到底思いつきませぬ」
「鮭延殿、それは違います」
私はぶんぶんと首を振った。
「私はただ、書物で学んだ知識をそのまま口にしているだけです。鮭延殿は、戦場で命を懸けて民を守っておられます。私はこうして、机の上でしか戦えませんから」
鮭延殿が、わずかに目を細めた。何かを言いかけて、やめた。その代わりに、小さく頷いた。それだけで、十分だった。
「して、具体的にどう実施してゆくか、ですが」
氏家殿が実務家らしく口を開いた。
「農民たちに新しいやり方を教え込むには、まずは試験的な田んぼをいくつか設けるべきでしょうな。いきなり領内全域のやり方を変えようとしても、農民どもは絶対に信じませぬ。『百聞は一見に如かず』、まずは目に見える成果を見せつけるのが上策かと」
「氏家殿、まさにその通りです!」
私は頷いた。本当に頭の回転が速すぎて尊い……! 私が言いたかったことを、先に言ってくれた。この人がいると、話が早い。
「今年の収穫が終わり次第、農民の方々に教え始めます。来年の春の種まきから実践してもらえれば、来年の秋には最初の結果が出ます。そこで手応えを感じてもらえれば、再来年から最上領全体に広げていけます」
「……待て。お前が直接、泥にまみれて農民に教えるというのか?」
お父様が、少し目を丸くした。
「はい。書状で伝えるより、私が実際にやって見せた方が早いですから」
「七歳の武家の娘が、田んぼに入るだと?」
「着物の裾を端折れば大丈夫です」
「……」
お父様が、額に手を当てた。深いため息が、鼻から静かに出てくる。
「それで……どこから学んだのだ。塩水選とやら」
「書物で」
「七歳の娘が読む書物ではなかろう」
「……お父様の書庫は、蔵書が豊富ですから」
お父様が、苦笑した。
氏家殿も、珍しく口元を緩めた。普段は感情を表に出さないあの氏家殿が、だ。鮭延殿が「……姫様らしいことよ」と小さく呟いた。その声には、呆れと、それを上回る温かさが混じっていた。
その夜。
私は再び燭台の前に座っていた。
昨夜と同じ居室。昨夜と同じ燭台。でも、昨夜とは少し違う。昨夜はただ、前世の記憶を必死に掘り起こすだけの手探り状態だった。でも今夜は違う。私の言葉が引き金となって、歴史がすでに現実として動き始めている。
新しい紙を広げ、農業改革の詳細な計画を書き始める。今年の収穫後に農民へ教える手順。来年の春の種まきに向けた塩水選の具体的なやり方。塩水の濃さ。浸ける時間。浮いた種の捨て方——。苗代の改善方法。防風柵の作り方。竹と藁の組み合わせ方。水路の工夫——。
筆が、紙の上を走る。
(——東北を、飢えない土地にする)
それが、私の新しい戦いだ。
将来惨殺される処刑フラグを折ることと、過酷な土地で生きる東北の民を守ること——この二つは、矛盾しない。むしろ、民に慕われる姫であることが最上家の力になる。最上家の力が、私の処刑フラグを折る力になる。全部、綺麗に繋がっているんだ。一本の運命の糸が、暗闇の向こうへどこまでも真っ直ぐに伸びていく。
「姫様……また夜更かしですか」
障子の隙間から、ひょこっと侍女の小春が顔を覗かせた。
とろ〜んとした眠そうな目で、だけど保護者みたいに心配そうな顔で、こちらをじっと見つめている。自慢の黒髪が少しはねて乱れていて、寝起きなのが丸わかりだ。
「大丈夫。今夜は早く寝るわ」
「……本当ですか」
「本当だってば」
小春が「はあ……」と息を吐いた。信じていない顔だ。長い付き合いだから、もう分かっているのだろう。それでも心配して起きてきてくれる。
障子が、静かに閉まった。
……だけど、申し訳ないけれど私の筆は止まらない。
(——ごめん、小春。嘘をついた)
でも、仕方ない。なにせやることが山積みなのだから。それに、今夜だけじゃない。これからずっと、こういう夜が続くのだと思う。それでも小春は、きっと毎晩のように「姫様ー!」って心配して顔を覗かせてくれるのだろう。
窓の外、出羽の夜空に、秋の星が瞬いていた。天の川が、白く静かに輝いている。越後の春日山城の夜空と、きっと同じ星が。
直江兼続が帳面に「最上駒姫」と書き記したことを、私はまだ知らない。石田三成が同じ夜に同じ四文字を書いたことも、私はまだ知らない。
ただ——次の戦場が、どこにあるかは、分かっている。
(さあ。次の戦場は、泥まみれの田んぼだ!)
墨を磨る静かな音が、出羽の夜に小さく響き渡った。




