第36話「駒姫の新たな決意——『東北を、飢えない土地にする』」(前半)
秋の夜というのは、思考が冴えすぎる。
困ったことに。
山形城の私の居室。燭台の炎が、ゆらりゆらりと揺れている。外からは虫の声が聞こえてくるけれど、夏の盛りのあのうるさいくらいの合唱とは違う。どこか疲れたような、秋の終わりを惜しむような、しみじみとしたソロパート。縁側の向こうに広がる夜空はすっかり澄み渡っていて、星がやけに近くに見える。出羽の秋の夜は、いつもこうだ。静かで、深くて、考えごとをやめさせてくれない。
私は膝の上に手を置いて、静かに目を閉じた。
(——さて。整理しよう)
本当なら声に出してまとめたいところだ。「整理しよう」と口に出すと、頭の中がすっきり整列してくれる——これは前世からの、どうにも抜けない癖なのだが、今夜は、隣の部屋で侍女の小春がすやすやと眠っている。さすがにこの真夜中、独り言をブツブツ呟いていたら、明日の朝に「姫様、どこかお悪いのですか……!?」と本気の涙目で心配される。あの子の心配顔は、見ていて本当に申し訳なくなるのだ。だから今夜は心の中で、丁寧に、一つずつ並べていく。
(今回の戦の結果。プラス面から)
第一に、尾浦城を守り抜いたこと。庄内全域のパーフェクト防衛こそ叶わなかったが、上杉の本庄繁長に城を明け渡すことはなかった。鮭延秀綱殿の援軍が間に合ったのは、私が事前に伊達への書状を手配していたからだ。
第二に、惣無事令違反を回避したこと。これに関しては、秀吉への先手報告が効いた。「上杉が先に動いた」という事実を、上杉の報告書より先に大坂城に叩き込む——それだけで、最上家への咎めはなくなった。
そして第三に、秀吉の関心を最上家に惹きつけられたこと。これは諸刃の剣だけれど、「羽州の狐め、抜け目ないわ」と笑われるくらいなら、生存ルートとしては上出来の方だろう。
(史実で、最上が庄内全土を失ったことに比べれば、今回は遥かにマシだ)
燭台の炎が、ふっと揺れた。
達成感が、胸の奥でじんわりと温かい。お父様の「でかした」という一言が、まだ耳の奥に残っている。あの大きな手が、私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた感触も。戦場帰りの、少しゴツゴツして、温かい手。
……でも。
(——これで終わりじゃないんだよね)
私は、ゆっくりと目を開いた。
さっきまでの温もりが、すうっと冷めていく。私の脳みそが、主人の意思を無視して、勝手に「次の問題」へと全力疾走を始めてしまった。これが転生者の性というやつだ。達成感に浸っている暇はない。前世でも、試験が終わった瞬間に次の試験のことを考え始めて、友人に「あんたって本当に人生休めないタイプよね」って呆れられたっけ。どうやら転生しても、この性分だけは変わらないらしい。
(次の脅威は、実は、上杉でも秀吉でもない)
そう。本当の敵は、人間じゃない。
私は膝の上の手を、ゆっくりと握りしめた。
前世の記憶が、静かに動き始める。
大学の、あの少し埃っぽい史学科の講義室。
プロジェクターが映し出す、東北地方の歴史。
画面に並ぶ、目を背けたくなるような冷害と飢饉の生々しい記録——。
——そう、私は思い出してしまった……
(——小氷期)
その言葉が、脳裏に浮かんだ瞬間、七歳の身体がわずかに震えた。
小氷期(Little Ice Age)。それは十六世紀から十九世紀にかけて、地球規模で気温低下を引き起こした恐怖の時代。日本の東北地方はその影響をまともに食らうポジションにある。特に夏季の気温低下と、北東から吹き込む冷湿な海風——「やませ」——が組み合わさると、稲は実らない。青々と順調に育ちかけた稲穂が、その冷酷な風の前に成すすべなく力尽きていく。農民たちが泥にまみれ、一年かけて必死に育ててきた結晶が、夏の終わりに無残に全滅するのだ。
(天正年間から慶長年間にかけて、東北では冷害と飢饉が断続的に起きている。史書には「餓死者が道に溢れた」という、地獄絵図のような記録もあった。あの有名な天明の大飢饉より二百年近く前の話だけど、規模は決して小さくなかった)
教授の声が、記憶の中で静かに語りかけてくる。
淡々とした、エアコンの効いた講義室の声。スライドのグラフを指し示しながら、数字と記録を積み上げていく、あの声。あたりまえだけど、前世の私はその授業を、どこか他人事として聞いていた。「テストに出るかなー」なんて呑気なことを考えながら、ノートに書き写していた。
でも今は——違う。ここは教科書の中じゃない。私の生きる、地続きの現実だ。
私は、その声を丁寧に掘り起こした。
(やませ。この不吉な風を、東北の農民たちは知っている。毎年夏になると、みんな怯えた目で北東の空を見上げて、あの冷たい風が来ないことを神仏に祈るんだ。でも——具体的な対策を知っている人間は、この時代には誰一人としていないだろう)
知識が、重さを持って胸に落ちてくる。
ずしん、と。
(私には、知識がある)
それだけで、何千、何万もの命を救えるかもしれない。
転生者チートとか、そういう軽い言葉で片付けたくない。これは責任だ。知っていながら何もしないことは、罪だ。前世の私が、エアコンの効いた講義室で他人事として聞いていた記録の、その一つ一つに、名前があった。家族があった。来年の収穫を楽しみにしていた、誰かがいた。
(軍事力だけでは、東北は守れない。どんなに強固な城だって、食料が底を突けば落ちる。領民が飢えに苦しめば、どんな名将だって兵を動かすことすらできない。お父様がどれほど無敵でも、鮭延殿がどれほど勇猛でも——お米がなくなったら、全部終わりなんだよ)
燭台の炎が、また揺れた。
その揺らめきを、私はじっと見つめた。小さな炎が、暗い部屋の中でひたむきに燃えている。消えそうで、消えない。揺れながら、それでも光り続けている。
——そうだ。そういうことだ。迷っている暇なんてない。
私は新しい紙を広げ、筆を取った。
墨を磨る。静かな音が、夜の居室に小さく響く。
さて、まずは何から始めるべきかな?
(一番簡単で、一番効果が分かりやすいことから。頑固な農民たちに私の言うことを信じてもらうには、まず『目に見える成果』が絶対に必要。どれほど正しい知識でも、信じてもらえなければ意味がない。信頼ってやつは、綺麗事の言葉じゃなくて、確かな結果で勝ち取るものだから!)
筆が、紙の上を走り始めた。
障子の外では、相変わらず虫の声がしみじみと響いている。まるで、このおだやかな秋の終わりを惜しむみたいに。
でも、私には一分一秒だって惜しんでいる暇はない。
出羽の夜が、深く、静かに更けていく。




