第35話「直江兼続の観察——『最上に聡い人間がいる』」(後半)
「では、その者とは誰だ」
景勝が、静かに問うた。
広間の空気が、さらに張り詰める。燭台の炎が、ゆらりと揺れた。石垣の外から、秋の夜風の音がかすかに届く。それ以外は、何も聞こえない。
「……義光殿の次女、駒姫という姫君にございます」
兼続が、静かに答えた。
その名前を口にしながら、兼続は自分でも不思議な感覚を覚えていた。「最上駒姫」という名が、帰路の山道で頭の中に浮かんだ時から、ずっと奇妙な重さを持っていた。
「大崎合戦の和睦を仲介したのも、この姫君だと聞き及びます。義光殿と政宗殿の間を取り持ち、最上・伊達同盟の基礎を作った。そして今回の庄内の戦の仕掛けも……おそらく、この姫君が描いた絵図です」
景勝が、わずかに眉を動かした。
その動きは、ほんのわずかだ。はた目には気づかぬほどのかすかな変化。だが、感情を表に出さぬ景勝がそれを見せたこと自体、異常事態とも言えた。
「……年は?」
「……七歳にございます」
しばらくの沈黙が、広間を満たした。
燭台の炎が、また揺れる。遠くで風が鳴った。越後の秋の夜は、静かで深い。山の向こうから、川の音が遠く聞こえてくる。
「七歳の年端もゆかぬ娘が……」
景勝が、珍しく、感情を露わにした。
普段は岩のように動じないこの男が、目を見開いている。「驚き」という感情が、その無表情の仮面の隙間から、ほんの少しだけ滲み出ていた。まるで、堅固な石垣の目地から、細い草が芽吹くように。
「……これほどの仕掛けを打ったと申すか?」
「だからこそ、侮れません」
兼続が、静かに、しかし確固とした口調で答えた。迷いのない声だ。
「年齢は関係ないのです。この姫君は、確かに先を読んでいます。そして——先を読める人間は、これからも先を読み続けることとなりましょう」
「……俺も同じ意見です」
繁長が、複雑な表情で頷いた。
その顔には、「そんなことが認められるか!」という猛将の矜持と、「しかし、身をもって知った事実だ」という老練な冷静さが、ないまぜになって刻まれていた。
「あの戦の間、ずっと誰かに先を読まれているような感覚があった。それが七歳の娘の仕業だったとは……」
繁長は、そこで言葉を切った。
猛将として、何十年も戦場を生き抜いてきた男が、七歳の幼女に先を読まれていた——その事実を、どう受け止めればいいのか。言葉が、見つからなかった。悔しいとも、驚きとも、違う。もっと複雑な、名のつけようのない感情だ。
本庄充長が、隣で静かに唇を噛んでいた。父・本庄繁長の次男として、また、亡き養父・大宝寺義興の跡を継ぐ庄内の「正統な支配者」として戦に臨んだ若者が、七歳の幼女の掌の上で踊らされていたという事実——若く血気盛んなこの男には、特に堪えるものがあった。
景勝が、静かに目を閉じた。
しばらくの間、誰も口を開かなかった。燭台の炎だけが、揺れ続けていた。
「……兼続」
「は」
「では、如何するか」
景勝の問いは、短かった。しかしその短い問いの中に、「上杉家の次の一手を、お前に委ねる」という信頼が込められていた。この男はいつもそうだ。多くを語らない。しかし、その沈黙の中に、すべてが入っている。
「……しばらく、様子を見ます」
兼続が答えた。
「今は秀吉の目が奥羽に向いています。軽率に動けば、惣無事令違反の咎めを受ける。最上も同じ制約の中にいる。今は……情報を集め、この姫君の次の手を読むことが先決です」
「……わかった」
景勝が、静かに頷いた。
それだけだった。それだけで、上杉家の方針が決まった。この広間では、いつもそうだ。多くの言葉は要らない。
その夜、兼続は一人で執務室に座っていた。
春日山城の夜は、深く静かだ。遠くで川の音がする。信濃川の流れが、秋の夜に低く、穏やかに響いていた。越後の秋の夜風が、障子の隙間から忍び込んで、燭台の炎を気まぐれに揺らした。
兼続は、文机の前で静かに思考を整理していた。
(——最上駒姫。七歳。大崎合戦の和睦を仲介し、最上・伊達同盟の基礎を作り、庄内の戦を事前に予測し、秀吉への先手報告まで準備した)
これだけの仕掛けを、七歳の幼女が描いた。
(——しかし……考えてみれば、年齢は関係ない)
兼続は、ゆっくりと息を吐いた。
(知恵は年齢で測れるものではない。問題は、この姫君がこれからどう成長するかだ。七歳でこれだけのことができるなら——十歳では、十五歳では、二十歳では、一体何をするのか)
その問いが、兼続の胸の奥で静かに燃えていた。燭台の炎と同じように、揺れながら、しかし消えずに。
(——上杉にとって、最上は常に西の脅威だった。しかし今後は……最上の背後にこの姫君がいる限り、単純な軍事力では対処できなくなることも考えられよう。外交・情報・先手報告——すべての面で先を行かれる可能性がある)
兼続は、筆を取った。
帳面を開く。
そして、墨蹟鮮やかに、その名を刻みつけるように記した。
「最上駒姫」
石田三成が大坂城で同じ四文字を書き記したことを、兼続は知らない。しかし同じ夜、遠く離れた越後と大坂で、二人の知将が同じ名前を帳面に刻んでいた——という事実は、後の世に語り継がれることもなく、ただ静かに歴史の狭間に沈んでいく。
(——覚えておこう。この名を)
兼続は、帳面の文字を静かに見つめた。
「……いつか、会うてみたいものよ」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
敵意ではなかった。警戒でもなかった。
ただの——純粋な、知的好奇心だった。
兜に「愛」の字を刻んだ男らしい、感情と理性が複雑に絡み合った、そんな感情だ。
(——敵として警戒すべき相手なのかもしれん。しかし……純粋に、どんな人間なのか、それを知りたいものよ。どんな目で世界を見ているのか。どんな言葉で語るのか。七歳の身体の中に、どれほどの知恵を宿しているのか)
しかしすぐに、兼続は気を引き締めた。
(——今は感傷的になっている場合ではない。景勝様のために、次の手を考えなければ)
筆を置き、別の紙を広げる。墨を磨る音が、静かな夜に小さく響いた。
越後の秋の夜が、しんしんと更けていく。
彼は小さく息を吐いて頭を切り替えると、次の書状へと手を伸ばした。
感傷は、仕事の邪魔だ。
帳面の「最上駒姫」という四文字は、越後の夜の静寂の中で、静かに乾いていった。
春日山城の夜空に、今夜も星が瞬いていた。
出羽の山形城の夜空と、同じ星が。
冴え渡る天の川の下、歴史の裏で踊る知将と、運命に抗う幼女——互いの存在を輪郭だけ捉えながらも、二人が出会うべき刻限は、未だ至ってはいなかった。
有名な直江兼続の兜に刻まれた「愛」の一字。これは「愛染明王」への信仰に由来するとも、「愛民」の精神を表すとも言われていますが、実のところ確定的な説はないようです。
確かなのは、兼続が武将であると同時に、卓越した行政官・外交官でもあったことです。
上杉家の財政再建、城下町の整備、外交文書の起草——兼続の仕事は戦場だけに留まりませんでした。




