第31話「十五里ヶ原の戦い②——『尾浦城の炎——東禅寺義長、最後の抵抗』」(後半)
同時刻、山形城の私の部屋。
私は文机の前で固まっていた。右手に握った筆はピクリとも動かない。
開け放たれた障子の向こうは、まさに夏真っ盛り。強烈な太陽が庭の白砂をキンキンに照らしつけている。うるさいほどの蝉時雨が降っているはずなのに、私の部屋だけはまるで世界の果てみたいに静まり返っていた。
「……っ」
七歳の小さな手のひらが、情けないくらいにプルプルと震えていた。筆先が和紙に触れそうで触れない。その数寸の距離が、今の私にはひどく遠く感じられた。
「姫様」
氏家守棟殿が、静かに障子を開けて入ってきた。その顔は普段の穏やかな表情を消し、戦場の武将の引き締まった顔つきになっている。老練な知将の目が、私を捉え、すべてを察したようにスッと細くなった。
「東禅寺義長殿、尾浦城に籠城中。本庄軍に包囲されております」
「……そうです、か」
私は、できる限り落ち着いた声で答えた。
(——やっぱり。ここまでは歴史通りの展開だ)
頭の中で、前世の記憶が冷静に動き出す。史学科の教授の声が、静かに語りかけてくる。史実における「十五里ヶ原の戦い」。このままだと尾浦城は落ちる。東禅寺義長は敗北する。そして——庄内地方は完全に上杉家のものになる。
(でも今回は違う。鮭延殿が向かっている。史実より数日は持ちこたえられるはず……持ちこたえてくれないと困る)
私は内心でそう自分に言い聞かせながら、もう一つの懸念を頭の中で転がした。パズルのピースをひっくり返すように思考を巡らせる。
(——問題は、本庄繁長が大宝寺義勝(充長)を連れてきていること。秀吉への報告書で「上杉の一方的な侵略」と主張しても、相手には「旧支配者の正当な復権」という、なんとも尤もらしい大義名分がある。これは……言い訳が、かなり難しい)
大宝寺義勝——またの名を本庄充長。庄内の旧支配者の養子として、「正統な復権」を名乗れる立場にある男。これは単純な「上杉の侵略」ではなく、「旧支配者の返り咲き」という、聞こえのいいストーリーを持っている。秀吉は物語が好きだ。分かりやすい「正義と悪」の構図に飛びつく。だとすれば、その構図を先に作るのは——こちらでなければならない。
(秀吉への報告書で、この大義名分をどう崩すか……。惣無事令は「現状の支配関係を固定する」法令だ。つまり、大宝寺義勝がかつて庄内の支配者だったとしても、惣無事令が出た時点で庄内を支配していたのは最上家。その後に武力で覆そうとすれば、それは明確な違反になる。事実の時系列を丁寧に積み上げれば——)
「姫様、何か召し上がってくださいませ。お顔が真っ青です」
不意に声をかけられ、思考の海から引き揚げられた。見ると、侍女の小春が心配そうに隣で膝をついている。お盆の上には、湯気の立つお椀。お出汁のめちゃくちゃいい匂いが鼻腔をくすぐる。あ、そういえば今日、朝から一歩も動いてないし何も食べてないや……。
「……大丈夫よ、小春」
私は笑顔を作ろうとした。でも、なぜか表情筋がうまく動かない。
「ただ……考えていることがあって」
「考えること、でございますか」
「うん。今のうちに、書いておかなければいけないものがあるの」
私はプルプル震える右手に力を込め、筆を握り直した。
対峙するのは、真っ白な和紙。
秀吉への報告書の、第二稿だ。
第一稿は「上杉が侵攻してきた。最上は防衛しただけ」という骨格で書いた。だが今回の戦では、相手方に大宝寺義勝という一見「大義名分の盾」が存在する。それを崩すためには、もう一段、論理の肉付けが必要だった。現代で言えば、相手の反論を先読みして潰しておく、答弁書の作成だ。
(惣無事令は天正十五年に出された。その時点で庄内を支配していたのは最上家。これが出発点。大宝寺義勝の「正統性」は、惣無事令以前の話であり、令の施行後は無効——)
筆が、和紙の上を走り始める。墨の黒が、白い紙の上に言葉を刻んでいく。一文字ずつ、丁寧に。これは刀ではなく筆で戦う、私なりの戦場だ。
しかし、その時。
「……お父様、無事に帰ってきてくださいね」
気づいたら、そんな言葉が口から出ていた。
筆が止まる。墨が、和紙の上でじわりと滲んだ。
「東禅寺義長殿も、来次殿も……鮭延殿も」
小春が、そっと私の隣に寄り添う。その温もりが、じんわりと伝わってくる。
私は懐から、お守りの数珠を取り出した。戦勝祈願のために、お父様から贈られた小さな数珠だ。七歳の手には少し大きい。指先に触れる珠のひとつひとつが、ひんやり冷たいのに、奥の方に確かな温もりを感じさせた。私はその数珠を、左手で壊れそうなほどギュッと握りしめた。
(——策は打った。できることはやった。あとは……信じるしかない)
でも、策士の仮面の下に隠れた七歳の私は、正直に言えば、本気で怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。どれだけ頭で計算しても、戦場に行けば生身の人間が死ぬ。血が流れる。その事実だけは、どんな現代知識を使っても、どんな天才的な策略を巡らせても、絶対に書き換えることができないのだから。
その頃、庄内。
上杉軍の包囲が、じわじわと締まっていた。
夕暮れが近づくにつれ、空が赤く染まっていく。しかしその赤は夕焼けだけではない。城下のあちこちで上がる黒煙が、空の色をより深く、より不吉な色に塗り替えていた。
尾浦城の城壁に、また一本、火矢が突き刺さる。ぼっ、という鈍い音とともに炎が上がり、兵士たちが必死に消し止めようとしている。水桶を手に走り回る足音、怒号、悲鳴——城内は既に、平時の面影を完全に失っていた。
義長は城壁の上に立ち、眼下の敵陣を睨みつけていた。
もはや、覚悟を決めかけていた。
(……鮭延殿は、来ない。来られないのかもしれない。ならば、この城で——)
その時。
遠く、山形の方角から。
地響きのような、馬蹄の音が聞こえてきた。
「……?」
義長が目を細める。
来次氏秀が、城壁の端から身を乗り出して叫んだ。
「義長殿! あれを!!」
山形方面から、猛烈な勢いで駆け下りてくる一団があった。最上の旗印を高く掲げ、土煙を上げながら突進してくる。夕陽を背に受けて、その旗が炎のように赤く輝いていた。
先頭を行く大将の顔が、義長の目に映った。
白髪交じりの髭。引き締まった体躯。そして、血気盛んな老将特有の、燃えるような眼光。迷いなど、欠片も見当たらない。
「——鮭延殿だ!!」
「援軍が来たぞ! 鮭延殿だ!!」
城内から、一斉に歓声が上がった。疲弊しきっていた兵士たちの声が、一瞬にして変わる。絶望の底から引き上げられるような、あの声だ。
「上杉め! 最上の援軍が来たぞ! 義長殿、今助ける!」
鮭延秀綱の野太い雄叫びが、庄内の夕空に轟き渡る。
上杉軍の包囲陣に、最上の援軍が真正面から突っ込んでいく。鮭延の猛将ぶりは本物だった。迷いのない突入、容赦のない斬り込み。まるで一本の槍が包囲網を貫くように、上杉の陣形が一点で大きく崩れた。
その隙を突いて、鮭延率いる一団が尾浦城の搦手門へと雪崩れ込む。
「開けろ! 鮭延秀綱が来たぞ!!」
「開門! 開門ッ!!」
城門が開き、鮭延の手勢が城内へと駆け込んでくる。
義長は、城内の広場で鮭延を出迎えた。
鮭延は馬から飛び降り、義長の前に立った。
「義長殿! 遅くなった! 義光殿の命で参った!」
「……来てくれた」
義長の声が、わずかに震えた。武将として、その震えを悟られてはならないと分かっている。それでも、止められなかった。
「義光殿を……信じて、良かった」
その目が、じわりと赤くなる。武将として、人前で涙を見せるわけにはいかない。義長はぐっと奥歯を噛みしめ、空を仰いだ。夕暮れの空が、赤く、広く、どこまでも続いていた。
一方、上杉軍の本陣では。
本庄繁長が、鮭延の到着を見て初めて表情を引き締めた。
(……鮭延秀綱。最上の猛将が来たか)
本庄は腕を組み、低く唸った。馬上の巨躯が、僅かに揺れる。
(これは……長引くか)
勝利の確信が、初めて揺らいだ瞬間だった。
夜。
山形城に、鮭延からの早馬が滑り込んできた。
城内はすでに寝静まり、しんと静まり返っている。だけど私は、自室の燭台の前から一歩も動かずに起きていた。報告が来るまで、眠れるはずがなかった。
お父様が氏家殿から書状を受け取り、もどかしそうに開いた。燭台の炎が、ゆらりと揺れる。
——(尾浦城の後詰めに成功。東禅寺殿は存命。本庄軍の包囲は継続するも、今夜は耐え凌ぎ候)
お父様が、ふうっと長い息を吐いた。
「……鮭延め、やってのけたか」
その声には、珍しく安堵の色があった。普段の「羽州の狐」の鋭さが、この一瞬だけ、柔らかく溶けている。お父様がこんな顔をするのは、私の前か、戦が一段落した時くらいだ。
私は届いた書状を、宝物みたいに胸にギュッと抱きしめた。
(——史実なら即死イベントだったはずの尾浦城が、持ちこたえた)
静かに、だけど確かに、その「戦果」が胸の奥にじわじわと染み渡っていく。歴史という名の湖に、私が投げ入れた石が、確実に波紋を広げている。
(歴史が、動いた。私の策が、本物の戦場を書き換えたんだ)
それは、達成感というより、もっと静かな感覚だった。高揚でも安堵でもなく——ただ、確認。「ああ、変えられたんだ」という、静かな実感。
でも——。
(まだ終わりじゃない。本庄繁長の包囲は続いている。政宗お兄様の援軍が来るまで、この膠着を保たなければ。そして秀吉への報告書も、仕上げなければ)
やることは、まだ山積みだ。策士に、休む暇はない。
私は縁側に出て、夜空を見上げた。
出羽の夏の夜空は、驚くほど星が多い。山形城から見上げる天の川は、まるで漆黒の反物にぶちまけた水晶みたいに、くっきりと白い輝きを放っていた。あれほど騒がしかった城下の喧騒も、出陣の足音も、今は嘘のように静まり返っている。遠くの方から、リン、リンと心地よい秋の先触れのような虫の声が聞こえてきた。
その星空の向こう、米沢の方角を見つめながら、私は小声で呟いた。
「政宗従兄様、早く……」
七歳の姫の、素直な願いだった。策も計算も、今この瞬間だけは、どこかへ消えていた。
出羽の短い夏の夜が、静かに更けていく。
庄内では今もまだ、尾浦城の灯りが燃え続けているはずだった。
戦国時代の武将たちの「忠義」とは、現代の感覚とは少し違い、生き残りと信義のはざまで常に揺れ動くものだったのだと思います。
東禅寺義長が「義光殿を信じて良かった」と呟く場面には、そんな乱世の人間模様が凝縮されています。




