第32話「十五里ヶ原の戦い③——『独眼竜、間に合わず——されど』」(前半)
出羽国を縦断する険しい山道を、一つの軍団が猛烈な勢いで駆け抜けていた。
鬱蒼と生い茂る杉やブナの巨木が、容赦なく照りつける夏の日差しを遮り、山道には濃い影が落ちている。しかし、涼しさなど微塵もなかった。風の通らない山中の空気は、まるで蒸し風呂の中にいるかのような湿気と熱を帯びており、兵たちの体力を真綿で首を絞めるように、じわじわと奪っていく。耳をつんざくような蝉時雨の中、無数の足音と馬蹄の音が地響きとなって山間を震わせていた。岩肌を伝う清水の音だけが、この地獄のような行軍の中で唯一、生きているものの声のように聞こえた。
竹に雀の旗印。
奥州の覇者・伊達政宗が率いる、精強なる伊達の援軍である。
「急げ! 歩みを止めるな!」
先頭を行く政宗は、漆黒の甲冑をガチャガチャと鳴らし、愛馬に鞭を入れながら焦燥に駆られた声を上げた。兜の下から覗く右目は、普段の冷徹な野心家の光を失い、ただ一つの目的地——庄内へと向けられた切実な色を宿している。額から流れ落ちる汗が、眼帯の紐を伝って顎から滴り落ちていた。奥州の覇者と恐れられる男が、今この瞬間だけは、ただ「間に合いたい」という一念で動いていた。
(——駒の書状を受けた以上、是が非でも間に合わせる!)
政宗の懐には、山形城から届けられた一通の書状がねじ込まれていた。七歳の従妹が、必死の思いで書き綴ったであろうその文面が、政宗の心を激しく揺さぶっていた。
『上杉が動きました。政宗従兄様、どうかお力をお貸しください』
普段から何かと折り合いが悪く、顔を合わせれば一触即発の空気になる、あの偏屈な伯父からの救援要請だけであれば、鼻で笑って後回しにしていたかもしれない。しかし、あの小さく愛らしい従妹が、自分を頼ってきているのだ。伊達の当主として、そして何より「頼れる従兄様」として、ここで駆けつけなくてどうする。
しかし——出羽の自然は、政宗の焦りを嘲笑うかのように立ちはだかった。
米沢から庄内へと抜ける道は、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の裾野を縫うように走る過酷な山岳ルートだ。道幅は人馬がすれ違うのがやっとの細さで、足元は苔むした岩やぬかるみが連続する。巨木の根が地面を割って盛り上がり、馬の足を何度も取られそうになる。重い甲冑と兵糧を背負った兵たちの息遣いは荒く、すでに何人かが道端に崩れ落ちていた。それでも誰一人として、立ち止まろうとしない。主君の背中が、そうさせなかった。
「政宗様! お待ちください!」
背後から、側近の片倉景綱が馬を寄せてきた。泥にまみれた顔には、深い疲労と、それ以上に冷徹な理性が同居している。この男は、どんな状況でも頭が冷えている。それが片倉景綱という人間だ。
「これ以上急いでは、兵が持ちません! この険しい山道で兵を消耗させきってしまえば、庄内に到着したところで上杉の精鋭と戦う力など残っておりませぬ!」
「……っ!」
政宗はギリッと奥歯を噛み締め、手綱を強く引いた。馬がいななき、前脚を上げてその場で足踏みをする。
「……わかっている」
政宗は、忌々しそうに吐き捨てた。
「頭ではわかっている。だが、駒が待っているのだ。あの小さな手で、必死に俺に助けを求めてきたのだぞ!」
「政宗様……」
片倉は、主君の痛切な言葉に小さく息を呑んだ。
(——政宗様が、駒姫様の書状一つでここまで必死になられるとは)
片倉は内心で、静かな驚きを抱いていた。大崎合戦を早期和睦に導いた時もそうだったが、あの七歳の姫君には、確実に「人を動かす力」がある。書状に記された的確な戦況分析と、政宗の自尊心を絶妙にくすぐる「従兄様」という言葉選び。あれは、ただの子供の書ける文章ではない。七歳の幼女が書いたとは到底信じられない、緻密な計算が一行一行に滲んでいた。
(あの姫様は……伊達家にとっても、間違いなく切り札になりうる存在だ)
片倉が静かにそう結論づけた、その時。
「申し上げます!」
前方から、物見の兵が転がるように駆け戻ってきた。息も絶え絶えに膝をつく。
「庄内より急報! 最上軍、庄内の一部から撤退を開始! 上杉軍が当該地を占領した模様です!」
「……何だと!?」
政宗の顔から、サッと血の気が引いた。
「遅かったか……! ええい、本庄繁長め、やりおったな!」
政宗の怒号が、出羽の山間に空しく響き渡った。その声が木々にぶつかって散り、蝉の声に飲み込まれていく。奥州の覇者の怒りでさえ、この深い山は静かに受け流した。
——同じ頃、庄内平野・上杉軍本陣。
見渡す限りの平野のあちこちから、黒煙が真っ直ぐに夏の空へと立ち昇っていた。焦げた木材と血の匂いが風に乗り、戦場の生々しい現実を容赦なく伝えている。夕暮れが近づく空は、煙と炎の赤が混じり合って、まるで世界の果てが燃えているかのような色をしていた。
本庄繁長は、本陣の床几にどっかりと腰を下ろし、血と泥に塗れた采配を握りしめていた。熊のような巨躯を包む漆黒の鎧は、数多の戦場をくぐり抜けてきた歴戦の証として、夕陽を受けて鈍く光っている。その視線の先には、最上方が死守する尾浦城の威容があった。落とせなかった城。それが今も、黒煙の向こうで静かに立っていた。
「本庄様!」
物見の兵が、陣幕に飛び込んできた。
「申し上げます! 伊達軍、庄内へ向けて飛ぶが如き勢いで進軍中との注進! 主将は伊達政宗本人にございます!」
「……来たか。伊達の独眼竜」
本庄は、白髪交じりの髭を撫でながら、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。しかし、その目に宿る光は氷のように冷ややかだった。長年の戦場経験が、感情と判断を切り離すことを教えていた。
「全軍に伝達! 深入りはするな。庄内の一部を確保した、それで十分だ。陣を固めよ!」
その命令に、傍らに控えていた大宝寺義勝(本庄充長)が弾かれたように顔を上げた。若武者らしい血気にはやる顔が、不満に歪む。まだ若い。まだ、勝利と前進しか見えていない年頃だ。
「父上! なぜですか! もう少し押せば、あの尾浦城も落とせます! 庄内全土を取り戻す絶好の好機ではありませんか!」
「充長、焦るな」
本庄は、低く、腹の底に響くような声で息子を制した。その一言だけで、周囲の空気がすっと静まる。これが、歴戦の猛将の持つ重さだ。
「伊達政宗が自ら兵を率いてきているのだ。ここで尾浦城に固執し、伊達の精鋭と正面からぶつかれば、我ら上杉も無傷では済まない。庄内の一部は取った。今はその地盤を固めることが先決だ」
「しかし……!」
「よいか、充長。戦は勝つことよりも、負けないことの方が難しいのだ」
本庄の老練な言葉に、義勝は悔しそうに唇を噛み、引き下がった。その背中に、若さゆえの焦燥と、父の言葉を受け止めようとする懸命さが滲んでいた。
本庄は再び尾浦城を見つめ、内心で静かに唸った。
(——最上に、恐ろしく聡い者がいる)
伊達への援軍要請の早さ。尾浦城への鮭延秀綱の絶妙な時機での投入。そして今、政宗が自ら兵を率いて駆けつけているという事実。すべてが、上杉の進軍を「ここで止める」ために計算し尽くされているように感じられる。偶然が重なるにしては、あまりにも精緻すぎた。
(この仕掛けを描いたのは……直江殿が言っていた、あの七歳の娘か。まさかな)
本庄は自らの考えを打ち消すように鼻を鳴らした。七歳の幼女が、これほどの策を。そんなことがあるはずがない。
——しかし。
その胸の奥底に芽生えた得体の知れない警戒心が、どうしても解けることはなかった。夕暮れの風が陣幕を揺らし、遠くで尾浦城の炎がゆらりと揺れた。




