第31話「十五里ヶ原の戦い②——『尾浦城の炎——東禅寺義長、最後の抵抗』」(前半)
庄内平野を吹き抜ける夏の熱風は、もはや爽やかさなど微塵もなかった。
それは風と呼ぶより、灼熱の息吹と呼ぶべきものだった。むせ返るような鉄錆と泥、そして生々しい血の匂いを孕んで、平野を舐めるように流れていく。蝉の声はとうに聞こえなくなっていた。代わりに耳を満たすのは、無数の鎧が擦れる金属音と、大地を揺るがす馬蹄の轟きだ。
十五里ヶ原——。
見渡す限りの広大な平野に、地響きを立てて押し寄せる黒い波があった。「毘」と「龍」の旗印を高く掲げた、越後の猛将・本庄繁長率いる上杉軍だ。その数、数千。夏の陽光を鈍く弾く黒い甲冑の群れが、まるで生きた嵐のように庄内の大地を覆い尽くしていく。本来ならば秋には黄金の稲穂が揺れるはずの豊かな平野が、今は無慈悲な鉄の波に踏み荒らされていた。
それを迎え撃つのは、最上義光から庄内統治を任された国人・東禅寺義長と、来次氏秀の手勢だった。
しかし——戦場において、数の暴力とは絶対だ。
東禅寺義長は、兜の下で目を血走らせ、自ら槍を振るいながら喉が裂けんばかりに絶叫した。
「押し返せ! 一歩も引くなァッ!!」
だが、上杉の精強な兵たちの容赦ない突撃の前に、最上方の陣形はまるで砂の城のように、見る間に削り取られていく。左翼が崩れ、右翼が押し込まれ、中央が薄くなる。どこを見ても、黒い鎧の波が押し寄せてくる。味方の悲鳴が上がるたびに、義長の胸がひりひりと焦げていく。
「義長殿、野戦では敵わん! 城に引こう!」
顔を泥と仲間の血で赤黒く汚した来次氏秀が、馬を寄せて悲痛な声で叫んだ。
義長はギリッと奥歯が欠けるほど強く歯を食いしばり、眼前に広がる絶望的な敵陣を睨みつけた。
撤退。その二文字が、武将としての意地と誇りを踏みにじるように頭の中を占領していく。だが——現実から目を逸らすことは、もっと多くの命を無駄にすることだ。
その時。
義長の視界に、ある一つの旗印が鮮烈に飛び込んできた。
本庄繁長の本陣の傍らで、夏の風に翻る見覚えのある紋。
——大宝寺義勝またの名を本庄充長。
かつてこの庄内を支配していた大宝寺家の養子であり、庄内の「正統な支配者」を名乗る若者。そして、義長がかつて仕えていた主家の嫡流である。遠目にも分かる、あの凛とした立ち姿。義長がかつて膝をついて仕えた、あの家の血筋。
「……充長様……」
義長の口から、掠れた、呻きのような声が漏れた。
胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛む。刃を交えているのは、敵ではない。かつての主家の嫡流なのだ。
(私は、あなたを裏切ったわけではない。この過酷な乱世で、庄内を守り、一族が生き残るために、最上に従っただけだ……!)
誰に届くわけでもない、言い訳にもならない葛藤を、血の味とともに深く飲み込んだ。乱世とはそういうものだと、頭では分かっている。それでも、あの旗印を見るたびに、胸の古傷がじくじくと疼くのを止められない。
義長は手綱を強く引いた。
「……わかった。尾浦城に籠る! 最上の援軍が来るまで、意地でも持ちこたえるぞ!」
義長の苦渋の決断に、来次氏秀が力強く頷く。
最上方の軍勢は、じりじりと血を流しながら後退を始め、庄内随一の堅城・尾浦城へと命からがら兵を引き入れた。倒れた仲間を引きずりながら、それでも足を止めずに城門へと駆け込んでいく。
それを見た本庄繁長が、馬上から天を仰いで豪快に笑い声を上げた。
「ハハハハハ! 東禅寺め、逃げるか! 追え! 尾浦城を囲み、一息に落とせ!」
上杉軍の怒涛の進軍が、獲物を逃さじと尾浦城へと殺到する。その足音が大地を揺るがし、庄内平野全体が震えているかのようだった。
——こうして、絶望的な籠城戦の幕が切って落とされた。
尾浦城は、庄内平野を見下ろす要衝にある堅城だ。
高く積まれた石垣、幾重にも設けられた曲輪、そして庄内の地を知り尽くした守将——本来ならば、容易には落ちない城のはずだった。
しかし、城を幾重にも取り囲んだ上杉軍の数はあまりにも多すぎた。四方八方から放たれる無数の火矢が夏の空を赤く焦がし、城門には丸太の破城槌がドスンドスンと絶え間なく、腹の底に響くような重い音を立てて打ちつけられる。城壁の向こうから聞こえてくる怒号と悲鳴が、容赦なく城内の士気を削っていく。煙が城内に流れ込み、兵士たちの目と喉を苛んだ。
「殿、もちません! 上杉の兵は多すぎる!」
城壁の上で、矢傷を負った兵士が悲鳴のような声を上げた。そのすぐ横を、ヒュンッと鋭く風を切って矢が通り過ぎ、義長の背後の板塀に深々と突き刺さる。羽根が小刻みに震えているのが、妙にはっきりと見えた。
「義長殿、山形から援軍は来るのか!?」
来次氏秀が、焦燥に駆られた声で問う。その目に、隠しきれない恐怖が滲んでいた。武将として長年戦場を生き抜いてきた男が、それでも隠しきれない——それほどの絶望が、今この城を包んでいた。
「……鮭延殿が来るはずだ」
義長は、血の滲むような声で答えた。
「義光殿が、必ず送ってくれる。あの御方は、身内を見捨てるような真似は絶対にしない。持ちこたえるぞ!」
自らを、そして周囲の兵たちを鼓舞するように叫びながら、義長は城壁から眼下の敵陣を見下ろした。
蟻の群れのように、際限なく押し寄せる上杉の兵。黒煙を上げて燃え上がる城下町。炎が夕暮れの空を赤く染め、遠くから女子供の逃げ惑う声が風に乗って届いてくる。
普通に考えれば、この城が落ちるのは時間の問題だった。もって数日。いや、今日一日持ちこたえられるかどうかも怪しい。
だが、義長の胸の中には、不思議な確信があった。
(……負けん。なぜかは分からんが、ここで終わる気はしない。何かが、我々を支えている……!)
それは、山形城の「羽州の狐」への絶対的な信頼か、あるいは、その背後にいる得体の知れない「何か」——あの幼くも恐ろしい姫君の存在——への直感か。
七歳の幼女が、東北の政治を動かしているという、にわかには信じがたい噂。しかし義長は、その噂を笑い飛ばす気にはなれなかった。あの最上義光が、七歳の娘の言葉に従って動いているとすれば——それはもはや、噂ではなく現実だ。
義長は血塗られた槍を力強く握り直した。
炎の照り返しが、その顔を赤く染める。
迫り来る敵兵に向かって、義長は獣のような咆哮を上げた。




