第30話「十五里ヶ原の戦い①——『上杉、ついに庄内へ』」(後半)
軍議の間の空気が、ピリッと張り詰めた。
そこへ、鮭延秀綱殿が前に出た。
五十代半ばとは思えない、引き締まった体躯。白髪交じりの渋い髭を蓄えた顔には、修羅場をくぐり抜けてきた男の凄みが刻まれている。いつもの優しいおじさまオーラは皆無。今日はその顔に一切の緩みはない。完全に戦闘仕様に入り、その目が鋭く光っていた。
「殿! 直ちに伊達家へ援軍を要請しましょう! 政宗殿との同盟があれば、上杉の背後を突くことができます!」
血気盛んな進言だった。
しかしお父様は、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「ふん。すでに政宗に書状を送ってある」
「……え?」
鮭延殿の目が、丸くなった。
「すべては、この駒の言う通りにな」
お父様がちらりと私を見る。私は「えへへ」と七歳児特有の無邪気な愛想笑いを返しておいた。内心では(よし、事前準備バッチリ!)とガッツポーズを決めていたけれど。
「殿、いつの間に……」
氏家殿も、驚いた様子で目を見開いている。
「姫様の先見の明は……本当に、恐ろしいほどでございますな」
「恐ろしいとは失礼な」
私は七歳児らしく、ちょっとだけ頬を膨らませてみせた。氏家殿が「これは失礼を」と苦笑する。
しかしお父様は、すぐに表情を引き締めた。
「鮭延」
「はっ」
「お前は今すぐ庄内へ急行し、東禅寺義長を支援せよ。義長だけでは本庄繁長の猛攻には耐えられん。お前が行けば、少なくとも城は保てる」
「承知いたしました!」
鮭延殿が力強く頷き、鎧を鳴らして駆け出していく。
その背中を見送りながら、私は内心で複雑な思いを抱えていた。
(——東禅寺義長殿は、史実では敗れる。尾浦城に籠城するも、陥落する。鮭延殿の援軍が間に合えば……でも、本庄繁長の兵力は数千だ。時間を稼ぐのが精一杯かもしれない)
前世の記憶と現在の状況が、頭の中でぐるぐると混ざり合う。
私はそっと目を閉じ、前世の教授の声を思い出した。
——十五里ヶ原の戦い。天正十六年八月。上杉軍の完全勝利。最上は庄内地方を完全に失う——。
でも、今回は違う。
大崎合戦は早期和睦で終わった。お父様は伊達と同盟を結んでいる。政宗従兄様への書状は、すでに送ってある。
(上杉相手に完全勝利は難しい。でも……庄内全土の喪失は、防げるはず。被害を最小限に抑える。それが今回の目標だ)
しかし、もう一つ。
私の頭の中に、ひっかかりがあった。
(——本庄繁長は、大宝寺義勝を連れてきている。「庄内奪還」という大義名分がある。つまり、上杉は単なる侵略者じゃない。旧支配者の復権という、きわめてタチの悪い体裁を取っている。これは……秀吉への説明が、面倒になる要素だ)
大宝寺義勝——またの名を本庄充長。庄内の旧支配者の養子として、「正統な復権」を名乗れる立場にある男。これは単純な「上杉の侵略」ではなく、「旧支配者の返り咲き」という、尤もらしいストーリーを持っている。
(秀吉への報告書で、この大義名分をどう崩すか……。事実の時系列を丁寧に積み上げるしかない。大宝寺義勝の「正統性」は、惣無事令の下では無効だ。なぜなら——)
「駒」
お父様の声で、私は思考から引き戻された。
「はい!」
「氏家、防衛兵を急ぎ庄内へ送れ! 鮭延、お前も後詰めとして出陣せよ! 伊達からの援軍が来るまで、庄内を守り抜くのだ!」
「「はっ!」」
氏家殿と鮭延殿が、声を揃えて応える。
軍議の間が、一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。鎧の擦れる音、命令の怒号、廊下を走る足音。武将たちが次々と部屋を飛び出していく。
そんな喧騒の中、お父様が私の前に立った。
いつもより、少しだけ低い位置から、私はお父様を見上げる。
お父様の大きな手が、私の頭にそっと乗せられた。
「駒、留守を頼んだぞ」
言ったのは、それだけだった。
でも、その一言に、お父様のすべてが込められていた気がした。
「……はい、お父様」
私は、精一杯の笑顔を作った。
七歳の娘として。最上家の姫として。
「必ず、お帰りをお待ちしております」
軍議の間が静まり返り、私は一人、自室へと戻った。
廊下の向こうから、出陣の準備の音が聞こえてくる。馬の嘶き、兵たちの掛け声、鎧を着込む金属音。
山形城が、戦の顔に変わっていく。
「姫様……」
侍女の小春が、心配そうな顔で私を見ていた。
「大丈夫だよ、小春」
私は笑顔を作ろうとした。
でも、なぜか表情筋がうまく動かない。
「……お父様、無事に帰ってきてくださいね」
気づいたら、そんな弱音のセリフが口からポロリと漏れていた。
「東禅寺義長殿も、来次殿も……鮭延殿も」
小春が、そっと私の隣に寄り添う。
私は、懐から数珠を取り出した。戦勝祈願のために、お父様から贈られた小さな数珠だ。七歳の手には少し大きい。
その数珠を、両手でぎゅっと握りしめた。
(——策は打った。できることはやった。伊達への書状も、秀吉への報告書の草案も。あとは……あとは、信じるしかない)
でも、策士の仮面の下に隠れた七歳の私は、正直に言えば、本気で怖かった。
史実を知っているということは、「何が起こりうるか」を知っているということだ。
東禅寺義長殿が籠城する尾浦城が、炎に包まれる可能性を知っている。
庄内の将兵たちが、本庄繁長の猛攻の前に倒れていく可能性を知っている。
そして、どれだけ策を練っても、戦場では人が死ぬということを——。
(……でも、史実よりはいい結果にする。絶対に)
私は、数珠を握る手に力を込めた。
遠く離れた庄内の空を、心の中で思い浮かべる。今頃、本庄繁長の大軍が、その大地を踏み荒らしているはずだ。
東北の短い夏が、戦火の熱を帯びて燃え上がろうとしていた。
本話に登場する本庄繁長は、実は若い頃に上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄や北条氏康と手を結んで反乱を起こした、筋金入りの「反骨の武将」です。
それでも謙信に許され、後に上杉家随一の猛将として活躍した——という、なかなかドラマチックな経歴の持ち主ですね。




