第28話「上杉景勝の動き——『最上と伊達が手を結んだ。今こそ庄内を取る好機』」(後半)
景勝との謁見を終えた兼続は、自らの執務室に戻ると、重厚な机の前に座り、奥羽に関する密書を広げた。
——最上義光の娘・駒姫。七歳。最上義光の次女。
兼続は、その短い記述を、穴が開くほどじっと見つめた。
——この娘が、最上と伊達を仲介した。たった七歳の幼女が、長年血を洗ってきた東北の二大勢力を一枚岩にした。これは……決して偶然の産物ではない。
兼続の明晰な頭脳が、散らばった情報をパズルのようにカチリ、カチリと組み合わせていく。
——最上義光。諸国が恐れるその男の本質は、度を越した『親バカ』である。娘の言葉であれば、それがどれほど不条理な提案であっても『全肯定』しかねない。一方、伊達政宗は底知れぬ野心家だが、この娘の才覚に引き込まれたという情報がある。……この娘は、最上と伊達という二大巨頭の双方に、決定的な影響力を持っている。
兼続は、ふうと深く、重い息を吐いた。
——七歳の幼女が、東北の政治を裏で動かしている。これは……上杉家にとって、決して無視できない特異な存在だ。
「——この娘を、注視しなければならない。そして……できれば、敵に回したくない」
兼続は、誰もいない執務室で、己に言い聞かせるように静かに呟いた。
しかし今は、主君である景勝の命に従い、庄内を取るための戦を始めなければならない。
——その後、この得体の知れない娘とどう向き合うかを考えなければならない。
「——東北は、思っていたより複雑だ」
兼続は、静かに確認した。
そして、彼の研ぎ澄まされた直感が、一つの確信めいた予感を告げていた。
——最上家は、上杉の侵攻をすでに予測しているはずだ。あの娘なら、必ず何らかの対策を講じているだろう。
同じ頃、春日山城の一角にある本庄繁長の陣では、血生臭い戦支度が慌ただしく進められていた。
「——庄内への侵攻準備を始めよ。景勝様のご命令だ!」
本庄の野太い声が陣中に響き渡り、武具を手にした家臣たちが「はっ!」と力強く応える。
本庄は、陣幕の中で腕を組み、ニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
——最上は、伊達との同盟に気を取られている。今が絶好の好機だ。
庄内は、本来上杉のものだ。最上が不当に占拠している。我々は、正当な領土を武力で取り戻すだけだ。
本庄の頭の中には、敵を蹂躙し、勝利の美酒に酔いしれる青写真しか描かれていなかった。
——しかし……直江殿が言っていた『七歳の娘』が少し気になるな。
本庄は、ふと兼続の懸念に満ちた言葉を思い出した。最上と伊達を仲介したという幼女。そんなままごとのような子供が、本当に戦場の脅威になるのか。
「……まあよい。戦は数だ。七歳の幼女が何を考えていようと、上杉の精強な軍勢の前には関係ない」
本庄は、自らの僅かな疑念を、圧倒的な武力への自信でねじ伏せるように結論づけた。
「本庄様、出立の準備が整いました」
家臣の報告に、本庄は立ち上がった。
「よし。庄内へ向かう!」
夕暮れ時。
兼続は、春日山城の城壁の上に立ち、血のように赤く染まる西の空を静かに眺めていた。
——景勝様は、庄内への侵攻を決断した。本庄が準備を進めている。もう止められない。
吹き抜ける生温かい風が、兼続の前髪を揺らす。
——惣無事令。秀吉は今、北条征伐の準備で忙しい。東北の辺境での小競り合いに構っている暇はないかもしれない。しかし……景勝様の『大義』という論理が、あの大坂の化け物に通じるかどうか。
兼続の胸の奥底には、黒い泥のような拭いきれない不安が渦巻いていた。
——そして……最上義光の娘。七歳の幼女。
兼続は、まだ見ぬ強大な敵の姿を想像した。
——あの娘は、上杉の侵攻を予測しているはずだ。伊達の援軍を要請する準備をすでに進めているかもしれない。もし伊達が動けば……上杉は、最上だけでなく伊達とも戦うことになる。それは……決して得策ではない。
「——この戦、吉と出るか凶と出るか」
兼続は、燃えるような夕日に向かって静かに呟いた。
——しかし……景勝様の決断に従うしかない。私は、景勝様の家臣だ。
兼続は、静かな、しかし強固な覚悟を胸に秘めた。
そして、西の空を見つめながら、ふと思った。
「——東北の七歳の娘。いつか、直接会ってみたいものだ」
それは、敵将に対する警戒心を超えた、一人の知将としての純粋な知的好奇心だった。
——最上家に、上杉侵攻の報告が届く頃だ。あの娘は、どう動く。
兼続の予感は、遠く離れた出羽の地へと向けられていた。
東北の短い夏が、戦火の熱を帯びて、いよいよ燃え上がろうとしていた。
今話の核心となる庄内地方は、酒田市や鶴岡市など現在の山形県北西部にあたる日本屈指の米どころ。
最上・上杉が何度も血を流して争ったのも、この地の豊かさゆえといえるでしょう。




