第28話「上杉景勝の動き——『最上と伊達が手を結んだ。今こそ庄内を取る好機』」(前半)
天正十六年(一五八八年)、夏。泥を干し上げるような陽光が、越後上杉家の本拠・春日山城を焼きつけていた。
軍神・上杉謙信の威光を今に伝えるこの堅牢な山城は、出羽の山形城に比べれば幾分涼しい風が吹き抜けていた。しかし、城内に満ちる空気は、夏の暑さとは全く別の、ヒリヒリと肌を刺すような張り詰めた熱を帯びていた。
静寂に包まれた奥の居室。上杉家の当主・上杉景勝は、目を閉じて岩のように静かに座していた。
寡黙にして実直。先代・謙信の「義」を継ぐこの男の前に、一人の若き重臣が足音もなく滑るように進み出た。
「愛」の字を前立てに掲げる知将、直江兼続である。
「殿、羽州より報告が入りました」
兼続の静かな、しかし芯の通った声に、景勝はゆっくりと目を開き、「言え」と短く答えた。
「最上義光と伊達政宗が、正式に同盟を結び、合同軍事演習を実施したとのことです」
「……そうか」
景勝は低く呟いた。その表情には、微塵の動揺も浮かんでいない。まるで、万年雪を頂く岩山のように泰然自若としている。
しかし、その傍らに控えていた猛将・本庄繁長が、目をギラリと血に飢えた猛禽類のように光らせて前に出た。
「殿、これは好機ですぞ」
「続けよ」
景勝が短く促す。
「最上が伊達と手を結んだということは、最上の目は今、東の伊達方面、あるいは同盟の維持と周辺国への誇示に向いております。我が上杉と接する庄内への警戒が、手薄になっているはずです。今こそ、我らの悲願である庄内を取る好機です!」
本庄の言葉には、戦に飢えた武将特有のギラギラとした熱がこもっていた。庄内地方は、莫大な富を生む豊かな米どころであり、最上と上杉が長年血を流して争ってきた係争地である。
「……なるほど」
景勝が低く呟く。
「殿、少しよろしいですか」
兼続が、熱を帯びる本庄を制するように、冷ややかな水を打つように静かに割り込んだ。
「兼続、言え」
「最上と伊達の同盟は……警戒が必要かもしれません。この二家が一枚岩になれば、上杉家にとって背後を脅かす無視できない巨大な勢力になります。それに——惣無事令がございます」
「惣無事令か」
景勝の眉が、わずかにピクリと動いた。
「はい。関白・豊臣秀吉が発令した大名間の私戦禁止令です。これに違反し、我らから先に兵を動かせば、秀吉に咎められる可能性があります。大坂の動向を見極めるべきかと」
兼続の氷のように冷静な進言に、本庄が荒々しく鼻を鳴らして反論する。
「直江殿は慎重すぎる! 秀吉は今、北条征伐の準備で忙しいはずだ。東北の辺境での小競り合いに構っている暇などない! 機を逃せば、庄内は永遠に最上のものになってしまうぞ!」
景勝はしばらく沈黙した。居室に、重苦しい静寂が降りる。
やがて景勝は静かに、しかし絶対的な響きを持って口を開いた。
「惣無事令は、最上が先に破った形にすればよい」
「……殿、それは」
兼続が言いかけるのを、景勝は手で制した。
「庄内は、本来上杉の領地だ。それを最上が不当に占拠している。我々は、正当な領土を取り戻すだけだ。大義はこちらにある」
「その通りです、殿!」
本庄が我が意を得たりと深く頷く。
「……しかし、秀吉がそれを認めるかどうか」
兼続は食い下がった。
「我々が先に動き、庄内を押さえてしまえば——それは既成事実になる。秀吉とて、事を荒立てるよりは現状を追認するはずだ」
景勝の論理は、戦国大名としては確かに筋が通っていた。力で奪い、後から理屈をつける。それがこの乱世の常識だ。
兼続は「……」と黙り込んだ。しかし、彼の明晰な頭脳は、まだ一つの「異物」を消化しきれていなかった。
「殿、もう一つ気になることがあります」
「何だ」
「最上と伊達の同盟を仲介したのが、最上義光の娘——七歳の幼女だという情報があります」
「……七歳の娘が?」
景勝が、初めて怪訝そうに眉をひそめた。
「はい。詳細は不明ですが……その娘が、東北の政治を裏で動かしているとの情報が、我らの軒猿からも上がっております」
「七歳の娘が、東北の政治を……」
景勝が、信じられないというように呟く。
「……警戒が必要かもしれません。ただの子供の戯言で、あの最上義光や伊達政宗が動くとは思えません」
兼続が静かに言うと、景勝はふっと息を吐いた。
「……まあよい。今は庄内だ。本庄、準備せよ」
「はっ!」
本庄が、力強く立ち上がった。
「……承知しました」
兼続は静かに頭を下げた。その理知的な目に、「この決断が、上杉家にとって吉と出るか凶と出るか」という静かな懸念が宿っていた。




