第29話「上杉侵攻と山形城への急報『——来た! 惣無事令違反に細心の注意……』」(前半)
出羽国、山形城。
天正十六年(一五八八年)、東北の短い夏は、容赦のない暴力的な熱気とともに訪れていた。ジリジリと焦げるような蝉の鳴き声が幾重にも重なって鼓膜を容赦なく打ち据え、開け放たれた縁側の向こうでは、庭先の青葉が陽炎に包まれてぐにゃりと歪んで見える。
「あっっっつぃ……!!」
私は自室の文机に向かい、うだるような暑さの中で一枚の和紙と真剣に睨み合っていた。
筆を握りしめる七歳の小さな手には、じっとりと汗が滲んでいる。
『——越後の上杉景勝が、天下の法である惣無事令に違反し、一方的に我が最上の領内・庄内へと侵攻してまいりました。我らは領民を守るため、やむなく防衛の兵を挙げた次第にございます。関白・秀吉殿下の公正なるご裁断を仰ぎたく——』
私が丹念に書き上げたのは、大坂に君臨する豊臣秀吉へ宛てた、渾身の「チクリ報告書(激怒プロフ付き)」の草案だ。
(……よし、文面はこれで完璧! 言い訳の余地ナシ! あとは、上杉が実際に動くのを待つだけだね)
先日、米沢にいる政宗従兄様の母君・義姫様から『上杉が庄内侵攻を企てている』という恐るべき密書を受け取って以来、山形城内は密かに、しかし急ピッチで戦支度を進めていた。
お父様はすでに、伊達の政宗従兄様へ「上杉が動いた際には、即座に背後を突く援軍を頼む」という事前の密使を送っている。あの合同軍事演習で結んだ『奥羽大同盟』の真価が、いよいよ問われる時が来たのだ。
準備は整っている。あとは、歴史の引き金が引かれるのをじっと待つだけだった。
その時。
「姫様! 姫様っ!」
バタバタというけたたましい足音とともに、侍女の小春が血相を変えて廊下を走ってきた。
「庄内から、早馬が飛び込んでまいりました! 軍議の間が、大変な騒ぎになっております!」
私はスッと筆を置き、迷いなく立ち上がった。
(——本庄繁長が、ついに動いたんだ)
私は書き上げたばかりの報告書を丁寧に折りたたんで懐にねじ込み、小春を伴って足早に軍議の間へと向かった。
軍議の間に近づくにつれ、お父様の怒号がビリビリと障子を震わせているのが分かった。
「おのれ上杉め! ついに牙を剥きおったか!」
私が静かに障子を開けて中に入ると、そこには血に飢えた夜叉のように顔を真っ赤にして激昂するお父様と、緊迫した面持ちで控える氏家守棟殿、鮭延秀綱殿の姿があった。
「殿、物見の報告によれば、上杉軍の主将は猛将・本庄繁長。兵数は数千に上るとのこと! すでに国境を越え、十五里ヶ原へと軍を進めております!」
鮭延殿の悲痛な報告に、お父様はギリッと大きな音を立てて歯ぎしりをした。
「本庄繁長……越後の猪武者め。庄内は我が最上の生命線、莫大な富を生む黄金の地だ。そこを土足で踏み荒らそうというのか!」
お父様は采配をガシッと掴み、勢いよく立ち上がった。
「氏家、鮭延! 直ちに全軍を出陣させよ! 十五里ヶ原で越後の連中を包囲し、一人残らず叩き潰してやる! 最上に手を出したことを、あの世で後悔させてやれ!」
怒りに任せて殲滅戦を命じようとするお父様に、私はすかさず声を上げた。
「お父様、お待ちください!」
七歳の幼女の甲高い声が、殺気立つ部屋の空気を切り裂くように響き渡る。
「……駒!? なぜここにおる。今は軍議の最中だ、子供は下がっていなさい!」
お父様が、普段のデレデレ顔とは打って変わった、冷徹な戦国武将の厳しい声で私を制止しようとする。
しかし、私は絶対に引き下がらない。
「下がれません。お父様、怒りに任せて上杉軍を殲滅し、そのまま越後へ深追いなどすれば、それこそ上杉の、いや……秀吉の思う壺です!」
「……何?」
お父様の動きが、ピタリと止まった。
「先日も申し上げたはずです。最大の問題は『惣無事令』だと。秀吉が定めた私戦禁止令がある以上、我々はあくまで『不当な侵略に対する正当な防衛』に徹しなければなりません」
私は一歩前に出て、お父様を真っ直ぐに見据えた。
「十五里ヶ原で本庄繁長を迎え撃つのは構いません。ですが、過剰な反撃は厳禁です。敵を国境線の外へ追い払えば、そこでピタリと軍を止めるのです」
「……防衛に徹しろと言うのか。我が領地を荒らした賊を、ただ追い返すだけで許せと?」
お父様が、納得のいかない様子で低く唸る。
「はい。ここで深追いして越後領に踏み込めば、大坂の秀吉から『最上も惣無事令を破った』と見なされ、領地没収の口実を与えてしまいます。戦に勝って、国を失うおつもりですか?」
私の冷徹な指摘に、お父様はハッとして手にした采配を下ろした。
氏家殿が、深く頷きながら口を開く。
「……殿。姫様の仰る通りにございます。我らの真の敵は、目の前の本庄繁長ではなく、大坂にいる関白・豊臣秀吉。ここで感情に流されれば、最上家は取り返しのつかない窮地に陥ります」
「……ぬうう」
お父様はドカッと床几に座り直し、忌々しそうに腕を組んだ。
「分かった。防衛戦に徹しよう。伊達の政宗にも、直ちに本使を走らせよ。事前の打ち合わせ通り、上杉の背後を脅かすよう要請するのだ」
お父様が冷静さを取り戻したのを見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
(よし、これで史実の大敗北ルートは回避できる。伊達の牽制があれば、本庄繁長も無茶な進軍はできないはず)
しかし、私の策はこれで終わりではない。
ここからが、現代知識チートの真骨頂だ。




