第27話「噂は中央へ——秀吉『奥州の狐と独眼竜が手を結んだじゃと?』」(前半)
天正十六年(一五八八年)の夏は、まだまだその終わるところを知らなかった。
うだるような重苦しい暑さが、天下人・豊臣秀吉の居城である大坂城をすっぽりと包み込んでいた。
絢爛豪華な金箔の装飾が施された奥の広間。障子越しに差し込む強烈な陽射しを背に受けながら、一人の男が畳に額を擦りつけるようにして静かに平伏していた。
豊臣政権の頭脳とも言うべき能吏、石田三成である。
「——殿下。奥州より、気がかりな報告が入りました」
三成の氷のように冷徹な声が、静寂な広間に響く。
上座で気怠げに豪奢な団扇を揺らしていた秀吉が、ピタリと手を止めた。
「なんじゃ、三成。北条の小田原征伐の準備で忙しいというのに」
「最上義光と伊達政宗が、正式に同盟を結び、合同軍事演習を実施したとのことです」
「……ほう」
秀吉の表情が、わずかに変わった。愛嬌のある猿のような人懐っこい顔つきから、底知れぬ天下人のそれへと、一瞬で空気が切り替わる。
「羽州の狐と独眼竜が、手を結んだじゃと?」
その低く響く声には、純粋な驚きと、微かな、しかし確かな警戒が混じっていた。
三成が手元の書状に視線を落としながら、淡々と報告を続ける。
「はい。演習の規模は、両軍合わせて相当数に上ります。周辺の蘆名や佐竹など、奥羽諸国の大名たちに同盟の存在を見せつける意図があったと思われます」
「……解せんのう。なぜ今になって、あの二人が手を結んだ。義光と政宗は、大崎合戦で血みどろの争いをしていたはずじゃ」
秀吉が、鋭く射抜くような目で三成を見据える。
「……一つ、気になる情報があります」
「言え」
「最上義光の娘が、両家の和睦と同盟を仲介したとの情報があります」
「娘じゃと? 何歳じゃ」
秀吉が怪訝そうに眉をひそめる。
三成は、感情を完全に殺した声で静かに答えた。
「……七歳と」
秀吉の表情が、完全に固まった。
「七歳の娘が、あの食えない狐と独眼竜を仲介した……?」
「詳細は不明ですが……そのような情報が複数、私の耳に入っております」
秀吉はしばらくの間、黙って宙を見つめていた。やがて、ふっと息を吐き出して再び団扇をパタパタと揺らし始める。
「……まあよい。今は北条が先じゃ。奥州は後回しにする」
しかし、その目の奥には「奥州は要注意だ」という強烈な認識が、静かに、だが確実に灯っていた。
三成が、静かに進言する。
「はい。ですが……奥州は注視すべきかと」
「わかっておる。三成、奥州の動静には細心の気を配るのだ。特に——その七歳の娘のことは詳細に調べおけ」
「承知いたしました」
三成が深く頭を下げる。その冷徹な目には、「奥州の七歳の娘——何者だ」という静かな、しかし鋭い警戒が宿っていた。
秀吉との謁見を終えた三成は、自らの執務室に戻ると、机の前に座り、奥州に関する書状を広げた。
——最上義光と伊達政宗が同盟を結んだ。これは、豊臣政権にとって決して無視できない動きだ。
三成の明晰な頭脳が、冷徹に計算を弾き出す。
——最上家の石高は約二十四万石。伊達家は約七十二万石。合わせれば、百万石に迫る奥州最大の勢力だ。これが一枚岩になれば、将来的に豊臣の天下統一の大きな障壁になりうる。
——しかし、なぜ今になって。義光と政宗は、つい数ヶ月前まで衝突していたはずだ。それが、どうして和睦どころか同盟まで結んだ。
三成の視線が、書状の一文にピタリと止まる。
「……七歳の娘が仲介した」
——信じがたい話だが、情報源は複数ある。事実なのだろう。
三成は、静かに呟いた。
「……この娘は、何者だ」
七歳の幼女が、奥州の二大勢力を仲介した。これは、偶然や子供の無邪気な戯言で成し得る業ではない。背後に何か、恐るべき計算がある。
——この娘を、注視しなければならない。
三成は筆を執り、新たな書状にこう書き記した。
『最上義光の娘・駒姫について、詳細な情報を収集せよ』
——奥州は、思っていたより複雑だ。
三成は、遠く離れた北の地にいる、見知らぬ七歳の少女に、静かな警戒心を抱いていた。
一方、その頃。
夏の陽射しが庭の瑞々しい青葉を照らし出す、山形城の私の居室。
「姫様、米沢の義姫様からお文が届きました」
侍女の小春が、うやうやしく書状を持ってきた。
「——義姫様から?」
私は手を伸ばし、そっと封を切った。義姫様の筆跡は、いつも通り端正で、しかしどこか名刀のような凄みを帯びた力強さがある。
『駒姫へ。秀吉が奥州の動きに気づいたようです。大坂から情報が入りました。今は北条征伐の準備で忙しいようですが——いずれ、奥州に目を向けてくるでしょう』
ゾクリ、と心臓が跳ねた。
最初の数行を視界に入れた瞬間、私は内心でヒッと激しく息を呑む。
——義姫様は、すでに遠く離れた大坂の極秘情報を掴んでいる。
一体どこから? 彼女が張り巡らせた情報ネットワークは……間違いなく、私の想像を遥かに超越している。
私は焦る気持ちを抑えきれず、吸い込まれるように続きの文字列に目を走らせた。
『駒姫、最上にも準備が必要です。秀吉は必ず奥州に目を向ける。その時、最上と伊達が一枚岩であることを示せれば——秀吉も手出しできなくなりましょう』
——嘘、でしょ……。
義姫様は、私が頭の中で必死に組み立てていた「次の一手」を、完全に、それも見透かすように把握しているのだ。
叔母上が見せる恐るべき先読みの才能に、私は真夏だというのにゾクゾクと背筋が凍りつくのを感じていた。
そして、書状の後半には、さらに重大な警告が記されていた。
『そして——もう一つ。上杉が動き始めているという情報があります。庄内への侵攻を準備しているとの噂です。兄上と政宗に諮り、今から準備いたしましょう』
——上杉。やはり、来た。まさに史実通り、そこそこ、いや、かなりヤバい展開の幕開けだ。最悪(滅亡ルート)とまではいかなくても、一歩間違えれば致命傷になりかねない大ピンチには違いない。
私は、書状をぎゅっと握りしめた。
『駒姫、あなたは聡い子です。でも——一人で抱え込まないように。何かあれば、私や、愛姫にもご相談なさい』
書状の最後のその一文に、私の目はじわりと温かく潤んだ。
「——義姫様……」
この方は、本当に恐ろしい方。けれど……本当に、ありがたい。
「姫様、いかがでしたか」
心配そうに覗き込む小春に、私は静かに答えた。
「そうね……とても、大切な手紙だったわ」




