第23話「最上の紅花と伊達の馬——そして東北の酒を美味しくする計画」(後半)
それから数日後。米沢城の最奥、独眼竜・伊達政宗の居室には、静かな、しかし密度のある驚愕が満ちていた。
政宗は、山形城から届いたばかりの駒姫の返書を、文字通り穴が開くほど見つめていた。まるでそこに、天下の行方を左右する秘策でも記されているかのように。
「――火入れ。低温殺菌。そして、木灰による濾過、か」
政宗が、信じられないというように、震える声で静かに呟く。
そこに記されていたのは、およそ七歳の子供が語るにはあまりにも理にかなった、未知のロジックだった。
「これは……本当に、あの娘が考えたというのか。あの、小さな幼女が」
傍らでその様子を窺っていたのは、伊達家随一の知将にして、主君の暴走を食い止める最後の砦、片倉景綱である。彼は今、主君のただならぬ気配に、キリキリと焼けるような痛みを訴え始めた胃の辺りをそっと押さえていた。
「殿、いかがいたしました。そのような難しい顔をして」
景綱の問いに、政宗はバッと勢いよく顔を上げた。その隻眼は、獲物を前にした猛禽類のようにギラリと狂おしいほどの光を宿している。
「景綱、これを見ろ。道理にかなって居る……。無論、実地に試してみねば真偽はわからぬが、論理に一片の隙もない。……駒姫の叡智は、本物だ」
「……左様でございますか」
景綱は、深く、海底の底まで沈んでいくような深く重いため息をついた。主君の「従妹バカ」という名の不治の病が、また一段階ギアを上げて、取り返しのつかない領域へと突入したことを確信したからだ。
「景綱! 酒造技術の交流を、本格的に進めるぞ。最上家にうちの腕利きを送り、逆に最上の者も受け入れよ。伊達の地でも、この『清酒』の製造を直ちに始めるのだ!」
「……御意。至急、手配いたします」
「そして――すぐに駒姫への返書を書く。あの姫に、俺の考えのすべてを、伊達の未来を伝えたい」
政宗は、もはやウキウキとした感情を隠そうともせず、ひどく楽しげに筆を執った。
景綱は、その光景を冷徹な目で見つめる。
(これは両家の未来を左右する、極めて高度な経済交渉の書状のはず。……なのに、我が殿は、完全に七歳の幼女との文通に魂を奪われておられるではないか)
「――ああ、胃が。胃が痛むわ……」
景綱は内心で悲痛な叫びを上げ、これ以上ないほど絶望的なため息を吐きながら、もはや少年のように楽しそうな主君の背中を見守るしかなかった。
その時、筆を走らせていた政宗の手が止まる。
その口角が、不敵な弧を描いた。
「ふっ、この酒が成った時……奥羽の景色は一変するぞ」
政宗が、わずかに笑った。
それは、単なる利潤への期待ではない。自分と同じ、あるいは自分を凌駕するかもしれない「異能の魂」を見出した喜びの笑みだった。
一方、出羽国、山形城。
政宗従兄様が酒造技術の交流を本格的に進めると伝えてきたことで、お父様の理不尽な対抗心に完全に火がついてしまっていた。
「政宗が酒造技術の交流を進めると言ってきただと? ならばこちらでも、先に清酒を作るぞ!」
お父様が、謁見の間でバンッと激しく床几を叩いて高らかに宣言した。
鮭延殿が、顔を盛大に引きつらせて前に出る。
「殿……それは、莫大な費用がかかります。大崎合戦の直後で、財政も厳しい折に……」
「駒のためなら安いものだ!」
お父様が、一切の迷いなく、ドヤ顔で言い切った。
——いや、駒姫様のためではなく、政宗様への対抗心では。
鮭延殿が内心で鋭く突っ込んでいるのが、顔を見なくても手に取るようにわかった。
私も内心でツッコミを入れるのを忘れない。
——お父様の大人気ない対抗心が、最上家の酒造技術をものすごいスピードで向上させている。笑えない。全然笑えないが……結果的に国力が爆上がりするからありがたい!
お父様が、私に向かって力強く、ウンウンと頷いた。
「駒、酒造りの改良を始めるぞ。お前が提案したのだから、お前が指揮を執るがよい!」
——えっ。私が酒造りの指揮を執るの!? 七歳児に現場監督をやれと!?
私は内心で激しく動揺し、盛大にずっこけそうになったが、表の顔では完璧な満面の笑みを浮かべた。
「はい、お父様! 頑張ります!」
その夜。
私は一人、居室の燭台の前に座り、今後の計画を静かに整理していた。
——紅花の流通網と酒造改革を同時進行させる。これが、経済同盟の第一歩だ。
お父様と政宗従兄様の謎の対抗心(という名の親バカ・従妹バカ合戦)のおかげで、計画は私の予想を遥かに超えるスピードで進んでいる。
——次は、伊達家への訪問が必要だ。
文のやり取りだけでは、具体的な交渉や細かい調整が進まない。それに、米沢城を訪問して、政宗従兄様の正室である愛姫様とも直接話をしておきたい。
そして――もう一つ。
私の脳裏に、前世で学んだ歴史の断片が、呪いのように鮮明に蘇る。
(伊達小次郎様。政宗の、同母弟……)
史実では、母・義姫に溺愛されたがゆえに兄と対立し、最期は兄の手で暗殺される悲劇の少年。
伊達家の内紛は、東北全体の弱体化を招く最大級の爆弾だ。
(……救えるものなら、救いたい。彼が生き残って伊達が盤石になれば、私の生存フラグもより強固になるはず)
「――処刑回避までの道は、まだ長い。でも、一歩一歩、確実に詰んでる」
私は小さく独白し、揺れる炎を見つめた。
(明日、お父様に米沢訪問をおねだりしてみよう)
七歳の幼女を装った現代人の、次なる『外交戦』が始まろうとしていた。
作中で駒姫が提案した「火入れ(低温殺菌)」ですが、日本の酒造りにおいては、西洋のパスツールが低温殺菌法を発見するよりも約300年も早い室町時代末期〜戦国時代(1560年代の『多聞院日記』などに記述あり)には、すでに経験則として行われていた、とされるのが定説のようです。
また、木灰を使って濁り酒の不純物を沈殿させる技法も戦国から江戸にかけての時代に発見されています。
駒姫は前世の知識を使ってこれらの最先端技術を最上・伊達にいち早く導入しようとしています。




